産業懇談会【メールマガジン 産懇宅配便】  第129号 2013.2.28 発行

 メールマガジン■産懇宅配便■

平成25年2月度(第129号) 目次

【25年2月度産業懇談会(火曜G)模様】 2月12日(火) 12時00分〜14時00分

【25年2月度産業懇談会(水曜第2G)模様】 2月13日(水) 12時00分〜14時00分
【名古屋いちばん物語】 No.42
【名古屋いちばん物語】 No.43
【新会員自己紹介】
中村 裕司氏

新日鉄住金エンジニアリング株式会社 理事中部支社長

【3月度産業懇談会開催日程】
【4月度産業懇談会開催日程】
【お知らせ】
【コラム】
コラム1 【保健師からの健康だより】 No.107
コラム2 【「ほん」のひとこと】 No.52
コラム3 【苗字随想】 No.129

【25年2月度産業懇談会(火曜G)模様】

テーマ『 見えないところに明電舎 』

日  時:平成25年2月12日(火) 12時00分〜14時00分
場  所:名古屋観光ホテル 18階 伊吹の間
参加者:25名

スピーカー:
新木 典壽あらき のりひさ)
株式会社明電舎中部支社 執行役員支社長

新木 典壽氏

1. 設立の経緯と会社概要
 明電舎の社名は、元号の明治の「明」、電気の「電」、志を同じくするものが集う場所を表す「舎」をあわせたもので、「明」には「明け行く明治の御代は芽出たい」という意味も込められている。また、業種では「重電機業界」に属している。
 当社は、1879年(明治30年)に創業者の重宗芳水が起こした電気機械工場の創設以来、今年で116年を迎え[創業の地は、東京市(当時)京橋区明石町]大正6年6月1日に株式会社明電舎として誕生し、電気機器メーカーとして様々な技術や製品、サービスの向上に努め、発展を続けてきた。「明電モートル」と呼ばれる電動機の製造を契機に飛躍を遂げ、1913年には東京・品川に大崎工場を開設。その後1961年には、静岡県沼津市に、1977年には群馬県太田市に工場を新設した。また、2007年には大崎に新本社ビル、沼津にも新本館を建設するなど、事務所や生産拠点の拡充整備に努めてきた。明電舎の製品・サービスは私たちの社会生活において目に見えない部分で暮らしを支えている。人と社会に欠かせないエネルギーの安定供給を支える機器、システム、安心・安全な水を供給する上水道技術と水質保全に貢献する下水道技術、工場の安定稼働を支え産業分野の自動化を実現する製品、自然の恵みをエネルギーに換える太陽光発電システム、これらの製品の保守・メンテナンスなど設備のライフサイクルのすべてにわたり一貫したサービス事業を提供している。

2. 沼津事業所の紹介
 私たちは110年を超える技術の蓄積と実績に基づいた提案力、解決力で人や社会の役に立ちたい、そして新しい時代を元気にするパワーであり続けたいと考えている。
 国内の生産拠点は群馬県太田事業所、愛知県名古屋事業所、山梨県甲府明電舎、そして沼津事業所の4ヵ所で、国内の営業・サービスの拠点は、全国主要都市に配置している。  
 海外では、中国、タイ、シンガポールなど、主に東南アジアを中心に生産・営業拠点を設けている。こうした国内、海外のマザー工場的役割を担う当社の主力生産拠点が沼津事業所である。
 静岡県東部地域の中核都市である沼津市は、日本のシンボルとして愛される富士山、太平洋を望む駿河湾、そして名水百選に指定されている柿田川湧水群などに囲まれた風光明媚な環境に位置している。こうした恵まれた自然環境のなか、沼津事業所は敷地面積約10万坪の広大な土地に様々な工場、事務所、福利厚生施設を併せ持ち、従業員数約2,700名を要する明電グループの基幹生産拠点となっている。
 事業所内の工場では、各種配電盤、コンピュータ応用製品、変圧器、スイッチギアなど多様な製品の開発、設計、製造を行っている。
 2011年には、沼津事業所開設50周年を迎え、さらなる前進の第一歩を踏み出している。質の高い製品とサービスを提供するのは人であり、また企業は社会の一員として、地域と環境に貢献すべきという考えを基本に、製品・サービスの質、人材の質、環境・地域活動の質の3つのクオリティを提供する「3Qファクトリー」(「3Q」は「Thank you.」としてお客様への感謝の気持ちも表現している)を展開している。
 沼津事業所は、高品質製品をお届けするマザー工場として、企画立案から開発、設計、製造、試験まで一貫した生産体制を構築している。この一貫生産におけるものづくり力こそが世界品質の原動力であり、お客様に満足いただける高品質製品・サービスの提供を可能にしていると考えている。
 豊かな自然に息づく高品質な事業所として、これからも「3Qファクトリー」をキャッチフレーズに感謝の心をのせて、世界に発信していく。そして今後もお客様を大切にし、次の100周年に向けて世の中のお役に立つべく未来につながる製品あるいは夢をつくり続けていきたい。

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【25年2月度産業懇談会(水曜第2G)模様】

テーマ『 IT市場の現状と未来 』

日  時:平成25年2月13日(水) 12時00分〜14時00分
場  所:名古屋観光ホテル 18階 伊吹の間
参加者:22名

スピーカー:
竹内 俊一たけうち しゅんいち)
株式会社エヌ・ティ・ティ・データ東海 取締役社長

竹内 俊一氏

1. 会社概要と自己紹介
 NTT DATAは、一言で表すと「世の中を便利に変える仕組みをITで作っている会社」と言える。昨年度でグループ企業は世界全体で約220社、売上高は1兆2千億円の企業グループを形成している。NTTグループの一角を占めているが、電話通信を取り扱う会社ではなく、いわゆるシステムインテグレーション事業を生業としている会社である。なお、 NTTグループでは東日本、西日本が国内の地域通信事業を、コミュニケーションズが長距離通信と国際通信事業、ドコモが移動体通信事業を担っている。
 株式会社NTTデータ東海は、東海地域におけるNTT DATAグループの事業拠点として、2003年7月に設立された。従業員数は約400人である。
 近年、NTTグループ全体としてグローバル化を進めているが、中でもNTT DATAグループは早くから業務提携、M&A等により海外への事業展開を着手しており、現在では約5万人を超す従業員のうち約4割が海外の社員が占めるようになり、社内会議でも英語や日本語が飛び交う場面も多くなってきている。
 私は昭和60年、電電公社からNTTに民営化された年に入社した。当時は国産コンピュータを国内企業と連携して開発しており、OSや通信制御ソフトウェアの開発を緒に、システムインテグレーション事業に携わってきた。一昨年に当地に着任するまでは、中央省庁等のシステム開発を担当していた。
 本日は貴重なお時間を頂戴したので、私どものグループ会社や仕事の紹介とともに、最近のITの動向や注目技術についてお話ししたい。

2. ITの動向について
 近年、ITの変革は極めて激しい。私が入社した当時はメインフレームという大型コンピュータが主体の時代であった。まもなく小規模なオフコンやミニコンに置き換えられ、さらにパソコンやサーバが活躍する時代となった。また、情報処理の手法も時々に変遷してきており、高性能のコンピュータで集中処理する手法から、複数のコンピュータをネットワークを介して互いに通信しあい大型コンピュータと同じ性能を出そうという分散コンピュータの考え方も出てきた。昨今はネットワークの高速化等、インターネットの接続環境の整備を背景にコンピュータの設備を共有するクラウドコンピューティングの利用も普及してきた。このように情報処理の手法は集中、分散を繰り返しており、さらに昨今ではモバイル端末の想像を遥かに超える発展が、その進展に拍車をかけてきている。
 大量のデータを扱う上の三大要素技術として、CPU(中央演算処理装置)、ストレージ(記憶装置)、ネットワークがある。最近の市販パソコンのCPU能力は1969年に月面着陸したアポロ11号計画で使われたものと比較して5万倍の処理能力がある。スマートフォンにはそれ以上のものまで搭載されている。ストレージは1988年には1つのドライブで20メガバイトであり、新聞20部ほどの情報の容量であった。1998年には5ギガバイトになり、新聞5千部相当、新聞紙を積み上げると高さ10m分にもなる。今は6テラ、新聞紙の高さは1万2千m分の高さになる。さらに、ネットワークは急速に速くなっている。

3. 注目技術のご紹介
 コンピュータ業界は女性ファッション業界よりも流行志向が強い唯一の業界とも言われている。情報化社会を映すキーワードの変遷は、激しく次々と変わる。注目すべき技術動向として、モノのデジタル化のインパクト、ビッグデータという2つの面から話したい。
 デジタル化は本当にいろいろなところで影響を及ぼしている。身近なところでは、音楽や出版、地図で進んでいる。消費者からすれば、保管スペースが減少し、検索がしやすくなった。また、複製が簡単になった。企業からすれば、資源が節約できるほか、市場の変化に対応できる。ただし、違法コピーへの対応は必要である。これまでは音楽や映像、画像のデジタル化が中心であったが、現在はモノがデジタル化される動きが出ている。3Dプリンター、電子設計図による造形が盛んになるだろう。
 ビッグデータへの取組みでは、データの収集とデータの活用に分けられている。また、日本ではまだ進んでいないが、データの所有権や共有化、オープン化についてはっきりさせなければならない。様々なデータの収集することを検討するなかで、それらをどのように処理し、活用するかが課題である。その際、個人情報の安全が守られなければならない。集めた技術の暗号化や匿名化の技術がこれから非常に重要になる。また、大量データを速く処理し、検索する技術に留まらず、概念処理、概念検索の技術も必要である。

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【名古屋いちばん物語】 No.42

テーマ『 尾張名古屋事始(4) 』

ONKネットワーク
加藤 敏

 数年前の“2番じゃダメなんですか?”という大臣の発言が今なお話題になることがある。その功罪はともかくとして、大きなインパクトがあったことは事実である。競争社会では誰もが1番を目指す。しかし誰もが1番になれるわけではない。確かに1番は素晴らしい。すべて1番になれればそれに越したことはない。だが現実はそんなに甘くはない。どのような分野であっても上位に顔を出すことさえ至難の業である。こうした現実を踏まえ、1番以外の者にも何らかの価値を認めること、つまりある程度の許容範囲にあるものを賞賛したり注目したりすることが積極的に行われてきた。そうすることで世の中は今日まで円満に収まってきている。そんな例として次のようなものが思い浮かぶ。

  • 1位のみを賞賛したり注目したりするもの
    ノーベル賞、囲碁・将棋のタイトル、官公庁発注案件の落札など
  • 3位までを賞賛したり注目したりするもの
    オリンピックのメダル、音楽のコンクール、業界のシェアなど
  • 10位程度までを賞賛したり注目したりするもの
    マラソンの入賞、プロ野球のドラフト指名、ザ・ベストテンなど

 これまでの歴史を振り返ってみても、先人はいろいろな知恵を出して多くの傑出した人物などを賞賛したり注目したりしてきた。代表的なものとしては、三英傑、四天王、五摂家、六歌仙、七賢人、八犬士などがある。幅広い分野に様々な人物などが登場している。三英傑や五摂家は名古屋にゆかりのあるものとして知られている。1人の英雄に注目が集まるのは当然であるが、多くの達人が語られるのもまた賑やかで楽しい。
 ここで名古屋にゆかりのある御三家について考えてみたい。言わずと知れた徳川御三家である。今や芸能界の御三家や業界の御三家など多方面に亘って使われている。この言葉の漢字の並び順に注目してみると、三英傑などとは異なっていることに気がつく。三英傑などは必ず数字が先頭になっている。これを英三傑とか賢七人などと言い換えると、何か座り心地が悪いものになってしまう。逆に御三家を三御家と言ったりはしない。なぜだろうか。おそらくそれは御三家が特別な言葉として扱われているからであるに違いない。
 それでは、御三家という言葉は何に由来するのか、またいつ頃から使われていたのだろうか。広辞苑は「三家」の用語について、(1)公家三家(閑院家・花山院家・中院家または久我家)、(2)徳川三家(尾州家・紀伊家・水戸家の総称)の2例を示したうえで、御三家として使われるのは(2)の場合であるとしている。ウィキペディアも徳川御三家に語源があるとしている。どうやら徳川家の将軍継嗣の血縁的支配の正当性を象徴する言葉のようである。御三卿も同様である。
 ところで、御三家は家康が創設したものであるといわれることが多い。確かに1616年に死期を迎えた家康は、義直(尾張)・頼宣(紀伊)・頼房(水戸)の3人の息子を枕頭に呼び、“秀忠にくれぐれもよくつかえよ”と言っている。(この時呼ばれなかった兄の忠輝はその後改易になった)。しかし、これをもって御三家の創設とするのは早計である。1626年の秀忠上洛時点では、義直と頼宣そして家光の弟の忠長(駿河)の3人が権大納言として位置づけられており、御三家といえばこちらを指していた。権中納言として格下の頼房を含めれば御四家になる。これは秀忠が忠長を義直や頼宣と同格とすることによって、義直らが将軍継嗣問題に物申すことを牽制したからであるといわれている。そうした中、1632年の秀忠没後に忠長が家光によって改易されたことから、頼房はようやく3番手に入ることになった。御三家が確立するのは家光の代になってからといわれるのは、こうした背景があったからである。(余談になるが、水戸は権中納言―唐名は黄門―が極官であるため、黄門を名乗る藩主が7人いた。だから光圀だけが水戸黄門というわけではない。尾張は権大納言が極官であったが、謹慎処分を受けた宗春のように生前は黄門のままの藩主もいた。)
 ところが家光の時代になっても、宗家と尾張・紀伊・水戸の間には御三家を巡っての確執が残っており、なかなか一筋縄ではいかない。それは次のような発言に端的に示されている。

  • 家光ー生まれながらにして将軍なり(自分は直系で正当性がある)
  • 義直ー我が父は権現様なり(家光は孫に過ぎない)
  • 光圀ー我が主君は今上皇帝なり、公方は武家の棟梁なり

 ちなみに家光からみると、叔父達は同世代である(義直は4才、頼宣は2才、そして頼房は1才の年上。従弟の光圀だけが2回り年下)。同世代であることが影響したのか、それとも後世の歴史家が面白おかしく脚色したのか、家光の時代には同族会社の内紛の火種のような残滓があったといっていい。尾張藩にも、“御三家とは将軍と尾張と紀伊である”(「公方尾紀同格論」)という考え方があった。これは宗春が吉宗による謹慎処分を受ける前に出された3か条の詰問への反論の中で堂々と展開している。残念ながら日の目を見ることはなかった。
 いずれにせよ御三家は複雑な経緯により徐々に確立していった。家康の思いとは別に、それは歴史の結果として出来上がったものである。林董一氏によれば、御三家という言葉が初めて法令に使われたのは1680年である。この時点では、家光の子の綱重(甲府)と綱吉(館林)の二家も徳川姓を使用していたので御五家が存在したことになるが、この二家はその後将軍を継いだのち血統が途絶えてしまった。この点に着目して厳密な意味での御三家が確立するのは18世紀に入ってからであると考える向きもあるようである。
 こうした歴史を背景に、尾張藩が御三家の筆頭であったことが今でも名古屋では語り継がれている。特に“筆頭”のところに力が入る。西からの攻撃への防御の面で要衝の地の名古屋に兄貴分の義直が配置され、石高など大藩としての処遇を受けたことは事実である。また江戸城の大廊下上之部屋や大名行列での格式など“筆頭”の重みは相当のものであったに違いない。しかし、“筆頭”といってもそれは徳川家の血縁に起因するものであり、必ずしも都市の実力を示すものではない。当時の三都は名実ともに江戸・大坂・京都であり、名古屋は金沢と並んで4番手にすぎなかった。そんな御三家の位置づけも吉宗が御三卿を創設してから次第に形骸化し、尾張藩は将軍の夢どころか「誤算家」という形容がぴったりの存在になってしまった。古き良き時代への郷愁から、“筆頭”ということが語られるのもいいが、何か負け惜しみのように聞こえてならない。
 今でも御三家に類する言葉がないわけではない。国土の発展軸などを形容するキーワードとして頻繁に使われている「東名阪」がそれである。名古屋の人はこの言葉を耳にすると、今は“末席”であるにもかかわらず、昔の御三家の郷愁からか「東名阪」の仲間に入っていることで気分を良くしている。確かに名古屋は工業力の面では堂々たる“筆頭”の実力を有している。だから「モノづくり」(“モノの賑わい”)ではどこにも負けない。その一方で、堅実な気風が影響しているのか消費パワーが脆弱であり、商業力の面では後塵を拝している。それを打破するかのように「モノづくり」から「ヒトづくり」へといろいろな工夫がなされたりしている。しかし、どことなく真面目さを再生産しているような気がしてならない。名古屋の堅実さはいささか栄養過多になっているのではないだろうか。むしろ遊び心に裏付けられた「まちづくり」というか「賑わいづくり」という気風の醸成に目を向ける時代になってきている。だから、例えば相続税の心配ばかりしないで自分のためにお金を使うこと、あるいは内輪だけで楽しむのではなく外から人が集まるような祭りやイベントに積極的に投資することが求められているのではないだろうか。そうしないと、今なお深層心理の中に息づいている「偉大なる田舎」という残像は消えやらないのかもしれない。もしも名古屋に“ヒトの賑わい”のルネッサンスが起これば、「東名阪」の“末席”から脱却することも夢ではないであろう。名古屋城本丸御殿の復元がそんな未来への第一歩になればと願っている。

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【名古屋いちばん物語】 No.43

テーマ『 「住吉の語り部となりたい」 シリーズ第23回 』

料亭つたも主人
深田正雄

生活と文化を結ぶマツザカヤ・・・南大津通りの賑わい

 前回は僕らの遊び場「丸栄」の思い出をお話ししました。栄小学校の通学路から離れた大津通りはヨソイキの街、特に大人についていく松坂屋さん(どういう訳か、この店だけ「さん」付で呼ぶのが慣わしでした)は特別の存在でありました。
 幼稚園の頃から、毎日のように良矩お祖父ちゃんに手を引かれて松坂屋さんに通う日々が思い出されます。カンガルーがシンボルのオリエンタル中村から、通りの両側にはアーケードがあり、楽しいお店がいっぱいありました。東側には守口漬大和屋さんの南、浪越軒の鬼まんじゅうとお汁粉、そして、白川幼稚園の同級生・市川裕子ちゃんのお母さんが作ってくれる大福の味が忘れられません。お店の左奥にある階段を上がり3階が住まいでアーケード屋根の上からの風景がチョット印象的でした。そして、スポーツ玉澤、うどん屋、婦人衣料の鈴丹、アジアの靴、ガス器具屋の前では、ライカのカメラを持った女性がパチパチ、お祖父ちゃんに住所を聞き、孫との写真を路上販売する商売が懐かしく思い出されます。(写真、参照)そして、花長、日本画材の美阜屋、タチソウ、桃源亭、岡本造花、風呂釜屋、岩田結納店・・・皆、繁盛していたようですね。
 松坂屋に入ると玄関右の石造りの階段を下がったところにある理容店が正雄君の行きつけの床屋で椅子も豪華でしたが大理石の鏡は贅沢なヨーロッパ調でした。
 勿論、屋上には丸栄に倍する大規模な遊園地、階段を使った2基の滑り台を中心に遊具がいっぱいで爺ちゃんのデパブラを待ちつつ集まった子供達と遊んでいました。
 当時から、松坂屋さんは市民の文化への貢献も多く、イベント、展覧会、劇場での公演がいつも開催され、生活になくてはならない存在価値がありました。
 爺ちゃん曰く、「これからは本町通りより、大津通りが賑やかになるぞ。本町衆は電車を通すことに反対したのが凋落の始まりだ!」明治末の共進博開催に伴い、電車の軌道開設により大津通りが拡幅され、松坂屋、中村呉服店も本町から移ってきたとのことです。
 西側には、栄町角から松坂屋食品館、カワムラヤデパート、勧業銀行、中央相互銀行、一柳葬具店、布地・丸澤屋、ふとん杉野、雀をどり、大林堂、安藤七宝店、呉服の松下屋など名門専門店が軒を並べていましたが、妙香園の街に漂う「ほうじ茶の香り」が名物でもありました。
 現在、三蔵通りZARA(元勧銀)となっている西隣には、蔦茂のメインバンク名古屋信用金庫が裸電球と板張り床で靴を脱いで上がり、毎日売り上げの集金に来る営業担当が正雄君の子守役を仰せつかっていたようです。勿論、同金庫の子供預金第1号は深田正雄の筈です。大同無尽と合併した中京銀行の社史に掲載を依頼しなくてはなりませんね。
 南に行くと料亭蓬莱、漆器屋さん、氷屋さん、乳母車屋(籐細工)さん、そして、戦災で焼け残った閑所長屋をとおり、勝鬘寺北の「そろばん塾」では学校帰りの子供達でごったがえっていました。塾帰りは寺の西、一文菓子屋で駄菓子を求め、矢場公園で紙芝居、鬼ごっこをしていると日も暮れだす「栄・三丁目の夕日」良き時代でした。
 南大津通りから、市電や両側のアーケードがなくなり、近年、商店街では積極的な町づくりへの取り組みがなされています。歩道の拡幅、街づくり協定に基づく建築セットバック(2.5m)規制、共同清掃、共聴システム、街路灯・イルミネーション、バナー、ケヤキ並木の景観維持、歩行者天国再開など、素晴らしい活動が栄地区全体をリードしています。
 仲良しの専門店グループの指導者、故・澤木公義さん、杉野峯一郎さん、そして、栄ミナミ商店会連盟・勝田明会長の尽力と奮闘に改めて敬意を表したく思います。


松坂屋前:祖父と正雄君、街頭カメラ女性撮影

松坂屋屋上・木馬

松坂屋屋上遊園地、電気自動車

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【新会員自己紹介】

中村 裕司氏
火曜グループ

中村 裕司(なかむら ゆうじ)
新日鉄住金エンジニアリング株式会社 理事中部支社長

【新日鉄住金エンジニアリング株式会社】
〒450-0003 名古屋市中村区名駅南2-13-18 NSビル6階
TEL:052-581-2172 FAX:052-581-4716
URL:http://www.eng.nssmc.com/

 新日鉄住金エンジニアリング(株)の中村裕司(なかむら ゆうじ)と申します。
 この度、九州に転勤になった五十幡の後をうけて、中部経済同友会に入会させていただきました。前任と同様に、産業懇談会火曜グループに参加させて頂きます。宜しくお願い致します。
 弊社は、鉄鋼メーカー系のエンジニアリング会社として、鋼を製造するプロセスに関わる技術と鋼を使う技術の二つをコアにして事業展開をしております。主な事業分野は、以下です。
・製鉄プラント事業
・海洋事業
・環境ソリューション事業
・エネルギー事業
・建築・鋼構造事業
・パイプライン事業(連結子会社)

 名古屋勤務は初めてですが、生まれが岐阜市で、高校卒業まで岐阜市に住んでいました。入社以来、東京を皮切りに、千葉、北海道、インドネシア、シンガポール、大阪など各地を転々としてまいりましたが、ようやく地元に戻ってきたという気がしています。
 東京に勤務していたときには、経団連の日露経済委員会の幹事会に参加していたこともあり、社外活動には興味を持っております。今回、中部経済同友会に参加させていただく機会を得て、感謝しております。
 よろしくお願い致します。

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【3月度産業懇談会開催日程】
木曜グループ以外は、名古屋観光ホテルでの開催です。
グループ名 世話人 開催日時 テーマ 場所
火曜グループ

安井善宏
深田正雄

3月 5日 (火)
12:00〜14:00

(株)きんでん 執行役員中部支社長
上坂 勇氏
「時の流れとエネルギーマネジメント」(仮)

3階
桂の間
水曜第1グループ

落合 肇
飯田芳宏

3月26日 (火)
12:00〜14:00

(株)大川商会 取締役
松尾 守氏
「災害から財産と生命、
企業活動を守る防災事業について」

18階
伊吹の間
水曜第2グループ

片桐清志
見祐次

3月 6日(水)
12:00〜14:00
(株)トヨタケーラム
代表取締役 村木 隆信氏
「ものづくりプロセスにおける
デジタル新技術ご紹介」
3階
桂の間
木曜グループ

河村嘉男
倉藤金助

3月 7日(木)
12:00〜14:00

(株)神谷ガーメント
取締役会長 神谷 裕之氏
「おしゃれと健康」
ご講話のあと、視察会を行います。

<集合・昼食会場>
ローズコートホテル
3階 アプローズ
中区大須4丁目9番60号

※水曜第1グループは、火曜日に開催です。

<ご参考>
3月7日(木)木曜グループ:(株)神谷ガーメント視察会 
住所:名古屋市中区大須4-11-50

12:00

12:00〜12:30

12:30〜13:10

13:15〜14:00

ローズコートホテル 3階「アプローズ」集合
※地下鉄鶴舞線「上前津」駅@番出口を出てすぐ
昼食

「おしゃれと健康」(ご講話)
■(株)神谷ガーメント 取締役会長 神谷 裕之氏
(株)神谷ガーメント内視察・概要説明

【備考】 ローズコートホテル 名古屋市中区大須四丁目9番60号 Tel:052-269-1811

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【4月度産業懇談会開催日程】
名古屋観光ホテルでの開催です。
グループ名 世話人 開催日時 テーマ 場所
火曜グループ

安井善宏
深田正雄

4月9日(火)
12:00〜14:00

名古屋ステーション開発(株)
取締役社長 梅本 薫氏
「鉄道駅における商業開発について」

18階
伊吹の間
水曜第1グループ

落合 肇
飯田芳宏

4月17日(水)
12:00〜14:00

弁護士法人清和
弁護士 榊原 章夫氏
「企業の海外進出に伴う法律実務」
18階
伊吹の間
水曜第2グループ

片桐清志
見祐次

4月10日(水)
12:00〜14:00
(株)ユーエス計画研究所
代表取締役 繁野 民輝氏
「建築設計・CM(コンストラクション・マネジメント)からみた成長事業と土地活用について」
18階
伊吹の間
木曜グループ

河村嘉男
倉藤金助

4月4日 (木)
12:00〜14:00
フリーアナウンサー
パーソナルプロデューサー 生田 サリー氏
「初対面の相手の心を一瞬で開く方法」
18階
伊吹の間

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【お知らせ】

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【コラム】

コラム1 【保健師からの健康だより】 No.107
花ちゃんからの健康だより

株式会社 スズケン
保健師 鳥巣 妃佳里

『 耳を大切にしましょう 』

 3月3日は「耳の日」です。これは数字の3が耳の形に似ていること、「ミ(3)ミ(3)」の語呂合わせになることから1956年に日本耳鼻咽喉科学会が制定しました。ちなみに3月3日は電話機を発明したグラハム・ベルの誕生日であり、三重苦で有名なヘレンケラーにアン・サリバンがはじめて指導した日でもあるようです。ヘレンケラーとアン・サリバンを引き合わせたのがグラハム・ベルだったという話もありますので、形や語呂だけでなく「耳」との関連が深い日とも言えますね。

 耳には大きく分けて2つの機能があります。「音を感じる」ことと「身体のバランスを感知する(平衡感覚)」ことです。
 耳は外耳、中耳、内耳という3つの部分で構成されていて、外耳と内耳は鼓膜で隔てられています。音は左右の外耳を通って鼓膜を振動させ、その振動が中耳から内耳に伝わり、内耳の“前庭(ぜんてい)”から“蝸牛(かぎゅう)”に伝わって電気信号に変換され、この信号が神経を伝って脳に届けられることで感じます。平衡感覚は内耳の“前庭”と“三半規管(さんはんきかん)”で感知しています。前庭、蝸牛、三半規管は近いところにありますので、耳の症状(耳痛、耳鳴り、難聴など)を訴える人には、平衡感覚の症状(めまいなど)も同時に訴える人が多くいます。そしてこの二つの機能は、耳という器官そのものの障害だけでなく、全身的な疾患や心の健康にも影響されることがあります。糖尿病の方には難聴になる方の割合が多いことが知られていますし、有名な方が心因性のストレスで耳が聞こえなくなったというニュースを耳にされたことがあるかと思います。普段の生活で意識することは少ないかもしれませんが、耳の健康が日常生活に及ぼす影響は計り知れません。

 耳にやさしい生活をするには、以下の事が大切になります。

  • 耳掃除は2〜3週に1回程度に。あまり奥までガリガリ掻かない。(耳垢にも外耳道の殺菌や皮膚保護などの役割がある。耳の中を傷つけて炎症をおこすとそれが難聴の原因になることもある)
  • 激しい騒音や大きな音を避け(イヤホンの音量にも注意)、テレビや音楽をかけっぱなしにしない。(耳を休ませる)
  • 耳を強くたたいたり、衝撃を与えたりしない。
  • 鼻をかむときは左右交互に行い、あまり強くかまない。(中耳炎の予防になる)
  • バランスのとれた食事を心がけ、神経の老化予防に効果的なビタミンB1(胚芽米、豚肉、うなぎ、落花生など)、B6(まぐろ、さんま、鮭、バナナなど)、B12(あさり、かき、牛や鶏のレバー、シジミなど)や血液循環を良くするビタミンE(かつお、鰯、カボチャ、大豆など)は積極的に摂る。
  • 健康的で規則正しい生活を心がけ、休養は積極的にとる。
  • 年に一度は健康診断で聴力のチェックを受ける。
  • 自覚症状(耳鳴り、難聴、めまいなど)を感じた時には、すぐに受診する。
  • 高血圧や糖尿病などの持病は、主治医と相談しながら上手くコントロールする。

 加齢に伴う難聴は音を伝える細胞が壊れてしまうと元には戻せませんが、耳にやさしい生活を心がけることが予防や進行を遅らせることにつながります。また、突発性の難聴やめまいは早く治療を受けることで治る確率が高まります。この機会に耳を大切にする生活習慣を取り入れてみませんか。

会話をすること、自然の音や美しい旋律を聴くことは、日々の楽しみの一つです。大切な「耳」にやさしい生活をはじめていきましょう。

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コラム2 【「ほん」のひとこと】 No.52
コラム【理念経営物語】

株式会社 正文館書店 取締役会長
谷口正明

『美しい日本の季語』
金子兜太監修・誠文堂新光社刊

 豊饒な日本語の世界へ誘ってくれる一冊です。タイトルの頭に「365日で味わう」とあるように、一日一季語を一ページで紹介し、解説のほかに俳句一句と関連季語が載っています。
 因みに春の季語から拾ってみましょう。

  • 「薄氷(うすらい)2月24日」の項では、「春先になって寒さが戻り、すでに氷の溶けた水辺にまた薄い氷が張ることがあります。その氷を『薄氷』といい、『うすらひ』ともいいます」と解説し、万葉の時代から冬の季語であったこの語が早春の季語に移行された事情も説明しています。
  • 「白梅(はくばい)2月9日」の項では、「花の兄」「春告草(はるつげぐさ)」「香散見草(かざみぐさ)」「匂草(においぐさ)」「香栄草(こうばえぐさ)」などの異名を紹介しています。
  • 「遅日(ちじつ)4月12日」の項では、「遅日」と「日永(ひなが)」の語感の違いがよくわかります。

 「季語を知ることは、日々の暮らしの中で出会う人や花、鳥、獣など、すべての生き物(自然)に対する思いを深めることです。(中略)四季の移ろいを敏感に感じ取ることは、毎日を丁寧に生きることにつながります。」(「はじめに」より)

 この本の姉妹編『美しい季語の花』は、同じ形式で季語の花365種を紹介し、その植物のきれいなカラーイラストが添えてあります。併せてお楽しみください。

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コラム3 【苗字随想】 No.129コラム【理念経営物語】

片桐清志

「沼」と「池」

 間もなく桃の節句、水ぬるむ時期になった。今月号からしばらく「水」に関係する苗字に注目してみたい。ズバリの「水」と苗字についてはすでに10年前の第9号(H15年2月)で、「川」と「河」は第62号(H19年7月)で、「海」も第39号(H17年8月)で触れているので、今回はそれ以外でポピュラーな「池」と「沼」と苗字の関係を調べてみた。
 「池」で始まる姓は177種あり結構多い。もう一方の「沼」で始まる姓は半分以下の69種に留まっている。しかし、「大池」、「大沼」のように池や沼が下につく苗字はどちらも結構ある。
 一字姓は「池」も「沼」もあり、それぞれそのままのイケとヌマの呼び方で良い。
 ランキング(佐久間 英)でも「池」姓が優勢で、トップの池田は27位、池上(391位)、池内(791位)、池谷(965位)が1000番内に、池永、池本、池沢、池野、池島、池原が2000番内に、池川、池尻、池辺、池亀、池端、池畑、池村が3000番内に登場する。「沼」姓は沼田がトップで507位、沼尻の1991位、沼野の2748位が3000番内に登場する程度だ。
 ユニークな苗字では「池」では池名(イケナ)、池之上(イケノウエ)、池之端(イケノハタ)、池脇(イケワキ)、池前(イケマエ)、池裏(イケウラ)、池側(イケガワ)、池井戸(イケイド)、池冨士(イケフジ)、池地(アサジ・イケジ)、池堂(イケドウ・イケノドウ)、池橋(イケハシ)、池越(イケゴシ・イケゴエ)、池間(イケマ)、池水(イケミズ)、池滝(イケタキ)、池色(イケイロ)、池金(イケガネ)、池鍋(イケナベ)、池鯉鮒(チリュウ・チリフ・チリウ)などが見つかった。
 「沼」姓では沼名前(ヌマナマエ)、沼上(ヌマガミ)、沼端(ヌマハタ)、沼前(ヌマサキ)、沼地(ヌマチ)、沼滝(ヌマタキ)、沼越(ヌマゴシ)、沼間(ヌママ・ノマ・ヌマ)、沼隈(ヌマクマ)などが見つかった。
 因みに沼は池の一種で一般に水深が浅く、水底の泥が深いものに名づけられる。しかし苗字では「池」と「沼」を組み合わせた「池沼(イケヌマ)」もあるし、「沼池(ヌマイケ)」もあるのでややこしい。

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【平成25年2月号編集後記】

 先月の編集後記では子供の職業体験施設「キッザニア」を紹介した。今月は先日TVでも紹介されていた大人向けにプロの技を教える「まちゼミ」を紹介したい。
 「まちゼミ」のきっかけは人通りが消えた商店街に賑わいを取り戻したいという店主たちの思いだ。商店街はいろんなものを売っているお店の集合体だが、同時にいろんなプロの技を持った人たちの集合体だ。物売りだけでは大型店に勝てないが、プロの技と組み合わせて商店街にしかない魅力をつくりだしたのが「まちゼミ」だ。
 たとえばお肉屋さんでは「ソーセージ作り教室」を開催している。対象はご近所の主婦層だ。食材や調味料などの材料と調理道具はすべてお肉屋が準備する。場所等の制約で料理教室と異なり少人数での参加になるが、教える先生はその道のプロだ。もちろん作ったソーセージは材料費だけで持ち帰ることができる。レシピーも用意しているし、調理用品は同じ商店街の金物屋さんと連携したチラシも用意してある。お得感満載だ。そのうえゼミを通じて様々な知識が得られるので「買い物力」も向上する。
 お店としては余分の手間はかかるが、お店のウリを知ってもらう絶好のPRになる。またゼミを通じてお客と店主とのコミュニケーションから新たな消費者ニーズが発掘でき、信頼感が芽生える。商品を知ってもらうだけでなく、店主の人柄を知ってもらえばお店のファン作りにつながる。参加者の得意メニューにしてもらえば食材も売れる。これまでの「特売」ではその時だけの売り上げアップしかないが、「まちゼミ」は手間ヒマはかかってもお客とのホンモノの関係作りができる。
 「ソーセージ教室」がいつも行われるわけではないが、お茶屋さんではおいしいお茶の入れ方を教えてくれる。食べ物関係だけではない。花屋さんではフラワーアレンジの教室が行われるし、ブティックでは「美しい姿勢講座」を、歯医者さんでは「歯のエステ」をやっている。商店街のどこかで日替わりの「ゼミ」が行われるしくみだ。
 まだまだ期間限定で試行錯誤の段階だが、全国的な広がりを見せており「まちゼミ」の全国交流会も開催されている。そのルーツは岡崎市だ。10年前に商工会議所のメンバーが始めた取り組みは現在では80店舗、106の講座に発展している。詳細はホームページ(http://machizemi.org/)をご覧いただきたい。通常の特売日のチラシとは一味も二味も異なり、「売る」ことではなく、自分たちの強みを生かした新しい取り組みが満載だ。「街コン」同様、地域ぐるみの取り組みが商店街の再生には欠かせない。それぞれの地元の良さを生かした魅力ある「街づくり」の活動として注目したい。

 産懇宅配便も従前からある印刷物の「情報誌」にはない会員向けのお得情報を積極的に掲載していきたい。今月号も2月の例会模様のほかに当地区のルーツを探る「名古屋いちばん物語」2編と健康アドバイス等のコラムを掲載している。会員諸兄からの「耳より情報」の寄稿を是非お願いしたい。

(片桐)