第10号 2003.3.27発行


15年2月度産業懇談会(水曜第1G)模様

1.日 時:2月19日(水) 12時30分〜14時
2.場 所:名古屋観光ホテル 18階 御嶽の間
3.テーマ:「スポーツで、もっと、幸せな国へ。Jリーグ百年構想」
4.スピーカー:吉田達法氏((株)メイアン 取締役社長)
5.参加者:16名

◇スピーチ内容
1.はじめに〜サッカーとの出会い〜
 中学からサッカーを始め、入学した大学は、サッカーでは名門で、日本の三大タイトルを全て取った記録がある。その後、就職は愛知県でと考えており、当時日本サッカーリーグに参加していた東海地方唯一のチームが名古屋相互銀行(現・名古屋銀行)だと知って、ここに就職した。当時はJリーグと違いアマチュアリーグだったが、半日ほど仕事をして昼からは練習をする、という生活をしていた。
 日本サッカーリーグには、名相銀の他に、三菱重工、日立、古河電工、日本鋼管、ヤンマー、東洋工業、マツダ、新日鉄、など名だたる大企業が名を連ねており、その中で我々が東海地方の代表であったことに大変誇りを持って頑張っていた。

2.FIFAアジア地区コーチングスクールを受講して
 日本サッカーリーグ時代、FIFAの主催で開かれたコーチングスクールを約4ヶ月受講したことがある。当初は「ボールの蹴り方を教わるのだろう」ぐらいの軽い気持ちで参加したが、内容は全然違っていた。サッカーでコーチと言えば、実は監督のことで、研修の内容も哲学、教育学、心理学、社会学、解剖学、医学、マッサージなどの座学が半分以上あり、残りが実技であった。そして、卒業試験にパスすれば、FIFA公認のコーチの資格が取得できた。サッカーの盛んなアジアの国ではこの資格があれば、大学教授並みの年収が得られる仕事に就けるというものである。現在でも、日本でこの資格を持っているのは15人ほどしかいない。以後、日本でこの資格制度を取り入れ、コーチの資格制度が確立された。
 このスクールは、アジア地区はサッカーが弱いため、ナショナルチームの指導者を養成しようというFIFAの指導の一環として、受講生がアジア地区13ヶ国から集められ、日本で開催されたものである。校長は、デットマル・クラーマーというドイツ人。世界にサッカーを普及するためにFIFAに公認されている指導者で、メキシコオリンピックで、日本が、世界中から奇跡だと言われた銅メダルを手にしたときの指導者で、少し前のサッカーファンであれば知らないものはいないほど有名な人である。彼は日本サッカーのベースをつくり、日本のスポーツ界にひとつのイノベーションを起こした人であると思う。

3.日本の武士道精神について
 クラーマーは、日本代表を任された時、技術も大事だが「気持ちのバランスをとって勝つことがより大切だ」と教えた。日本でサッカーの指導するにあたり、来日前に日本の文化や歴史などを勉強して、日本のよい面、悪い面を徹底的に学んだ。その結果、クラーマーは、武士道や大和魂といった日本の文化に着目し、戦争で特攻隊のように使うのではなく、「その精神をスポーツに活かすことにより、どんな相手にも勝つことができる」と教えたのである。「日本の文化をいかにうまく使い、どうやって特色を出していくか」ということを、我々は外国人に指摘されて気がついたというわけである。

4.マッチコミッショナーの仕事について
 その後、企業規模も行員数も少ない名相銀にとって、大企業に伍して企業スポーツを続けていくことが大変難しくなり、無念であったが創業者であった会長が、休部を決断された。部員は他のチームに移り、私も誘われたが選手を辞め、銀行に残った。
 しかしながら、サッカーとの縁は切れたわけではなく、現在でもJリーグでマッチコミッショナーを務めている。役割は、Jリーグの試合に立会い、試合の監査をすること。我々は試合の2時間前に会場へ行き、どういう芝か、危険なものはないか、警備はどうなっているか等を確認し、天候が悪い時には試合を中止する権限も持っている。その試合についての最高責任者と位置付けられ、試合のレベルアップを目指して、常に目を光らせている。

5.Jリーグ百年構想と事業機会
 プロサッカーチームの鹿島アントラーズでは、現在ソフトボール、テニス、ミニバスケットの指導者を雇い、鹿島アントラーズの施設を開放している。また、Jリーグではサッカーの普及活動を義務付けており、子ども達にサッカーを教えないチームはJリーグとして認めないこととしている。単にサッカーを普及させ、チームを強化するだけではなく、子ども達の教育や地域活性化のためにスポーツ文化を確立していくこと――これがJリーグの理念である。
 また、私はよく、海外の知人に「日本の公園は、芝生で遊ぶことは禁じられ、囲いがしてある。芝生は見るためのものなのか。」と聞かれる。芝生の上で遊べばケガをしないし、緑と触れ合うこともできるのに、なぜ日本人はそうさせないのか不思議だと言う。たしかに、欧州でグランドといえば芝があたりまえなのに、日本の小学校はどこも土の運動場である。ケガの心配がなく思いっきり運動ができる環境を考えれば、見直しが必要だと思う。
 こうしたことから、例えば建築関係の企業であれば、企業と地域公共団体と地域住民とが一緒になった、住民参加の総合型スポーツセンターを各地域につくっていくことを提案し、そのための施設やハードを提供していってはどうだろうか。また、最近では寒いところや土が少ないところでも序々に芝が生育できるようになっているので、芝生を徹底的に研究して、土のグランドを芝に変えたり、芝生による屋上緑化を提案してみてはどうだろうか。

[記者の一言]
質疑応答では、芝生の青さを保つこと、ナショナリズム、チームの強さについて、等様々な質問が飛び出し、Jリーグの理念やスポーツに対するご自身の思いについて有意義なお話をいただいた懇談会であった。


15年2月度産業懇談会(木曜G)模様

1.日 時:2月20日(木) 12時30分〜14時
2.場 所:名古屋観光ホテル 18階 伊吹の間
3.テーマ:「タクシー事業の現状と課題」
4.スピーカー:大島弘氏(名鉄交通株式会社 取締役相談役)
5.参加者:22名

◇ スピーチ内容
1.タクシー事業の規制緩和
 平成14年2月に「道路運送法」が改正となったが、1番のポイントは、事業の新規参入が免許制から許可制になったこと。以前は国土交通省による審査があり、開業にも廃業にも厳しかったが、今は一定の基準さえ満たせば簡単に開業できるようになった。ただし、道路交通法の改正により警察と関係機関との連携が強化されたり、役所の監査体制もより厳しくなった。運賃は従来通りの認可制であるが弾力性のある制度になった。

2.名古屋の現況
 当社は「名古屋交通圏」に属しているが、名古屋では法人77社約6,200台、個人約1,300台が営業している。営業形態は、「流し」「無線」「待機」。急ぎ、天候の悪条件、地理不案内、体調が悪いといった理由での利用が多い。
当社では、一回の平均運賃は約1,600円(約5km)で、全回数の18%が初乗り(1.8km以下)。相乗りを利用すれば、電車・バスと比べて一人当たりの運賃は安くなるので、こうした近距離のお客様にも力を入れていきたい。

3.ドライバーの賃金体系
 運転手の賃金は年間300万円強で、全産業の推定額と比較すると約200万円も低い状況である。賃金体系は、A(固定給+営業収入の一部が歩合給)、B(営業収入に対する一定の歩合給のみ)、C(一定の金額を会社に納めるだけ)の3種類。Aは会社への帰属意識は強いが、自分からお客様を開拓していこうという意識が弱い。Bは個人の意識は高いが、お客様の抱え込みが多くなる。Cは会社の看板を借りているだけという感が強く、勝手な行動が多くなる。一長一短であり、今後どの体系がよいか検討中である。
 年々営業収入が減ってきているが、市内の台数はバブル期とほとんど変わらない。今後「いかにお客様に満足していただくか」を心掛けないと脱落していくし、給与の問題も解決していかないだろう。

4.当社のこれからの課題
 まず、お客様の確保と拡大であるが、今注目されているのが、福祉である。“介護”は資格が必要なので難しく、当社では“介助”の教育を従業員に行っている。また、買物の代行、病院の送迎や薬の受け取りなどのサービスがどの程度まで可能か、目下東京で実験中である。
 人材教育という点については、バスや電車といった他の交通機関と異なり、乗務員の人事管理が大変難しいため苦労しているが、特に接客サービスの教育に力を入れている。マニュアルはあっても、基本は「心」の問題と考えている。「おかげさま」の気持ちを持ち、機械的でなく、心からの気持ちで接すれば自ずとお客様の要望も把握でき、結果的にお客様の満足に達すると教えている。

5.お客様からの声
 会社へは苦情・お叱りからお礼・励ましにいたるまで、日々多くの意見が寄せられる。いくつか紹介してみたい。二十歳のアルバイト青年からは、「成人式の日に名タクに乗ったら、運転手さんがとても元気な挨拶をされ、気持ちが良かった。僕もアルバイト先のコンビニでそういう挨拶ができるよう心掛け、運転手さんのような大人になりたい」という手紙をもらった。私達の仕事は、人の人生観までも変える重要性を持っていると感じた。また、「病後で体調が悪い時に乗った。場所がよくわからずにいると、運転手さんが車を停めて携帯電話で調べたり、車を降りて走り回り、一生懸命探してくれて自分も社会の為にならなければと教えられた。大変助かった」とのお礼の手紙をいただき、大変嬉しく思った。
「タバコを吸って良いかと聞いたら、我慢しろと言われた」など苦情もあれば、「陣痛の時に乗ったら、もう少しだから我慢して!がんばって!と励まされ、ありがたかった」など、同じ“我慢”でもいろいろだ。ひとえに運転手の対応ひとつであると思う。
 タクシー協会では、毎年10、11、12月にドライバーのレベルをあげる目的で、モニターを集い評価をお願いしている。当社では、別途モニター専門の会社に依頼し、1台当たり年に5〜6回程度モニターの方に乗車してもらうよう実施しているが、徐々に評価も上がってきており、効果がある。今後もより一層の向上を図りたい。
 また今後は、防犯協力や地震災害時の緊急輸送・情報の提供などといった社会貢献にも努めたい。

[記者の一言]
大島相談役がお礼の手紙を読まれていたとき、感極まって言葉に詰まられていたのが印象的であった。質疑応答では、日頃乗車しているタクシーや渋滞時のマナーに対する厳しい意見・提案、道路交通法改正後の実態や代行運転、稼働率についてのさまざまな質問が次々出るなど、関心の高さをうかがわせた。



15年3月度産業懇談会(火曜G)模様

1.日 時:3月11日(火) 12時30分〜14時
2.場 所:名古屋観光ホテル 18階 伊吹の間
3.テーマ:「最近思うこと」
4.スピーカー:中村昭二氏(株式会社トキワ 専務取締役)
5.参加者:17名

◇ スピーチ内容
1.トキワについて
 昭和22年、先代である曽我藤勇が創業。曽我一族によるオーナー企業である。かつてはトンボ鉛筆の7割を生産していた。現在は、鉛筆に端を発し、古紙による製紙事業と鉛筆型眉墨などのメークアップ化粧品事業を柱としている。製紙で約100億円、化粧品で約80億円、計180億円の売上がある。

2.製紙事業
 当社ではパルプを一切使わず、100%古紙から紙を製造している。「再生紙と言えばトキワ」と言われるほど、最新設備を投入し、技術面でも高い評価を得ている。また、建築廃材から得られる木屑チップにより自家発電を行い、また製紙に不可欠な水についても循環率を高めるなど、全ての面においてリサイクルを徹底している(平成12年にISO14001認証を取得)。厳しい品質管理と技術革新により、日に400tの古紙と330tの古ダンボールから、洋紙・ダンボール中芯原紙を生産しており、製品の65%は出版物になる。こうしたリサイクル事業は今後ますます重要度を増すと思われる。
 しかし、最近の製紙業界も、出版業界の不振、本の薄冊化、ダンボールの使用減といった影響から低迷している。また、中国・アジア諸国の工業化進展に伴う古紙需要急増により、原料古紙の値上がりなどもあって、大変苦しい状況である。

3.化粧品事業
 日本国内では自社ブランドを持たず、完全なOEM化粧品を製造している。メークアップ化粧品を取り扱っており、資生堂・コーセーと言った日本のトップメーカーをはじめとする約140社に納入している。ペンシル類をはじめメークアップ化粧品の開発を手がける技術部、容器の設計から製品管理までを担当する設計部があり、容器と中身の両方を作るOEM化粧品会社の中ではトップと自負している。現在の製造状況をまとめると、多品種・少量生産・短納期。先日の週刊東洋経済の特集に、店頭で3,000円の口紅は原価が450円と載っていたが、当社の現状はさらに低く、店頭小売価格との差は約20倍である。当社では化粧品で80億の売上があるので、市場価格ベースでは1,500億程度になると言えよう。製品としては、欧米人のような「目元パッチリ」の流行、化粧の低年齢化から、最近ではアイライナー、アイブロウ、マスカラなどの売れ行きが大変好調である。

4.海外展開
 ミャンマーと上海に子会社を持つ。ミャンマートキワは、元軍人である先代社長がミャンマーを訪問した際、軍事政権をとる政府のもてなしに感銘を受け、その場で設立を決心したもので、現在は鉛筆と化粧品を製造販売している。同国にてメーカーで認可を受けたのは、我が社が日本初。軍政の為にいろいろと制約もあるが、人件費が全員(300名強)で1ヶ月あたり50万円程度と安い。気候は雨季と乾季があり、今頃は大変暑い。政情不安な点もあるが、治安としては決して悪くない。通貨はチャットだが、外国人専用の兌換紙幣であるFECがある。為替レートは、2000年には1USドルあたり320チャットだったものが、今では1200チャットという大変なインフレである。
 日本国内ではOEM化粧品だけを取り扱うが、ミャンマーでは「アフロディーテ」という自社ブランド化粧品の販売もしており、ミャンマーのトップ女優を使ってCMをしている。鉛筆に適しているインセンスシーダーという木が、米国では伐採禁止となり、中国にも残っていないがミャンマーにはあることから、鉛筆そのものだけでなく、その軸板もタイ、マレーシアなどへ輸出している。
 またこの3月、上海に子会社を設立したが、これは台湾人の経営している会社をM&Aしたもの。設立にあたっては、UFJ総研にコンサルタントを依頼、大変お世話になった。25日に初めて上海資生堂に出荷予定である。

5.その他の事業
 製紙事業のリサイクルに関連して、再生トナーカートリッジの会社を作った。トナーカートリッジを使う複写機は、現在、日本に約2,500万台あり、そのトナーカートリッジの需要は新品が月138万本、再生品は25万本とされる。再生品需要は新品の約15%程度だが、欧米では再生品が30%程度を占める。また、値段も新品の約1/3であることから、今後も再生カートリッジの需要は増えていくと見込んでいる。

[記者の一言]
 動画やスライドショーをふんだんに盛り込み、見せる工夫もされた大変楽しいプレゼンテーションであった。当日は、参加者全員男性ということもあり、女性化粧品への質問が続出。また、ビルマの竪琴やスーチー女史で有名ではあるものの、日本ではあまりよく知られていない国「ミャンマー」についての質問も多かった。



15年3月度産業懇談会(水曜第2G)模

1.日 時:3月12日(水) 12時30分〜14時
2.場 所:名古屋観光ホテル 18階 伊吹の間
3.テーマ:「当社のおもてなし事業部について」
4.スピーカー:九鬼綾子氏(ミックインターナショナル株式会社 代表取締役)
5.参加者:25名

◇スピーチ内容
1.はじめに
 会社の設立は1981年。当時は、今と比較にならないほど女学生の就職が厳しい時代であった。ましてや実家は江戸時代から続く材木屋で、父親は「女は仕事をしなくてよい」という古い考えを持っていたこともあり、自分自身、あまり仕事をするつもりはなかった。大学卒業後、1週間で結婚したが、毎日同じことを繰り返す結婚生活に少々退屈して何かやりたいと思っていた矢先、名古屋にオリンピックを招致しようという話があり、それなら海外からのお客様にボランタリーに名古屋を案内できないかと考えたのがきっかけとなって会社を設立し、現在に至っている。
2.事業内容について
 事業内容は、一言でいえば「総合外国語サービス」。通訳・翻訳、ランゲージセミナーの開催、海外赴任者サポートプログラムという3つがメインである。通訳・翻訳は、基本的にほとんどの言語に対応可能である。ランゲージセミナーは、これから赴任をする人、海外部門、海外からいらっしゃる方々を応対する人たちに対する語学研修で、すべてオーダーメイドのプログラムでやっている。技術者には技術者用の言語があり、駐在する方のための言語もある。海外赴任者サポートプログラムは、海外人事部でやることをアウトソーシングしてもらい、駐在する方、奥様もしくはその家族の方に対してサポートサービスをする。なかでも「海外駐在夫人のための生活セミナー」は大変好評で12年続いている。

3.おもてなし事業部について
  「おもてなし事業部」の内容は、おもてなしのコンサルティング、企画・実施・運営、コンソーシアム主催運営、その他おもてなしを実施する事に関わる付帯業務である。
 当社では、おもてなしコーディネーターの養成セミナーを月1回開催している。衣紋道(皇室にあがって天皇家の方たちに十二単や束帯を着せる仕事)高倉流の仙石会頭に、講師として日本文化の源流や皇室の祭事、礼法、マナーについてお話していただいている。
 昨年の秋、新しく「おもてなし事業部」を設立した。これは、ここ2、3年ずっとあたためていたものである。このおもてなしという部分は、ボランタリーなイメージをもっており、本当はNPOや組合の組織でやろうと考えていたのだが、いろいろ検討した結果、「おもてなし事業部」という形にすることにした。
私は、おもてなしは「一期一会」であると考える。お客様によって、おもてなしのパターンは全部違い、それを一期一会でご提案する。また、当地区にいらっしゃるお客様には、この地域のものをもっておもてなしをするのが本来であると考える。おもてなし産業を創出したからには、今までの歴史や積み上げてきたものをつかって地域の独自性を出していきたい。名古屋には、見る所、食べる所、体験することがたくさんある。この中部地域の伝統文化、伝統工芸品、日本文化をもってすばらしいおもてなしをしていきたい。
 以前、カザフスタンの駐日大使および奥様、お嬢様が名古屋にいらっしゃった際、レセプションをしたことがある。中央アジアのカザフスタン人は黒髪で日本人に容貌が似ている方も多いという話を聞いたため、着物のショーの最後に、1番華やかな振袖をお嬢様に着てもらった。会場の皆さんには、あらかじめ大歓声と盛大な拍手をお願いしておいたのだが、いざお嬢様が出てきたら、その演出に大使ご夫妻は大変喜ばれた。そのこともあってか、その後のビジネスは大変スムーズにはこんだ。そういう観点で言うと、ただ単にビジネスで来て、食事をするだけではなく、あなたのために心よりおもてなしを致しますという気持ちが、お客様にどんなに感じ入って頂けるかを実感している。

4.万博の開催に向けて
 2005年に博覧会があるが、せっかく来ていただく以上は、この地域にとどまって、いろいろ見ていただきたいと思う。何か目玉として博覧会を盛り上げるものがないかと思い、たとえば豪華客船をチャーターし、宿泊とバンケットを含めたトータルサービスをしてはどうかと考えている。アトラクションやレストランの内容については、中部やこの地域に徹底的にこだわって、日本文化も含めて楽しんでいただければうれしい。これは究極の博覧会に対するおもてなしの気持ちであり、ぜひ実現したいと思う。

[記者の一言]
九鬼社長からは、通訳の中でも、もっとも大変な同時通訳の裏話やいろいろなおもてなしのパターンを披露していただいた。質疑応答では社名の由来や万博でのおもてなしについて等、質問やご意見が飛び交い、大変盛り上がった懇談会であった。


15年3月度産業懇談会(木曜G)模様

1.日 時:3月6日(木) 12時30分〜14時
2.場 所:名古屋観光ホテル 18階 伊吹の間
3.テーマ:「試練を乗り越え、新たな飛躍 −繊維メーカーの人と物創りのあり方 −」
4.スピーカー:矢野 保氏(東レ株式会社名古屋支店 支店長)
5.参加者:18名

◇スピーチ内容

1.東レと中京地区との関わり
 東レの創立は1926年。当時、イギリスからレーヨンを輸入していた三井物産が、自社開発を考え、東洋レーヨン(株)(現・東レ(株))をつくった。
 従業員数は、単独で8,300人、グループ全体では海外も含めて37,000人になる。拠点は世界19カ国で204社あり、日本国内が116社、海外が88社。2000年度の売上約1兆円強のうち75%が基盤事業であるプラスチックや繊維で占められているが、2010年度には、戦略拡大事業として情報通信やライフサイエンス、快適産業を約5割まで増やし、利益を確保していく考えだ。今は東レにとって大きな転換期で、「試練を乗り越え、新たな飛躍をしよう」を合言葉に、総力を結集して新たな方向に転換しようとがんばっている。
 当社と愛知県は歴史的に関わりが深い。1927年、滋賀工場でレーヨン糸を初紡糸したが、当初は名古屋の枇杷島で開業する予定であった。しかし、水がレーヨン製造に適さないことがわかり、急きょ代替地として滋賀県の石山が選ばれた。その後1941年、庄内川レーヨンを買収し、現在の愛知工場となった。1951年には、米国デュポン社とナイロンに関する技術提携契約をし、日本初の合繊であるナイロンを愛知工場でつくることとなった。1960年に岡崎工場、1971年に東海工場が完成。東レはナイロンに続き、ポリエステル技術を英国ICI社から導入、東海工場で生産を始めた。さらに、1971年には岐阜工場も完成。総合して、東レは愛知工場、名古屋工場、岡崎工場、東海工場、岐阜工場と、東海地方に5つの工場をもち、約5,000名がこの地で皆様にお世話になっている。

2.物づくりの変革
 インド旅行の際、ムガ・シルクを手に入れた。ムガとはインドのアッサム語で黄金という意味である。全インドで年間80トン生産されており、輸出は800グラム。大量生産ではなかなか近づけない天然の恵みであり、そのすばらしい品質は、物づくりの原点である。
 東レは、世界で初めて極細繊維を開発した。直径2ミクロンというその細さは、たった4グラムで地球を1周するほどである。繊維の中には穴を空けることもでき、この穴の壁を通る間に水が浄化されるため、“トレビーノ”という家庭用の浄水機に使われている。これは人口腎臓にも使われ、血をきれいにする役割を担っている。
 また、ゴルフの際のカッパに用いられている透湿性素材“エントラント”は、汗の蒸れを防ぐ。ミクロポラスという大変小さな穴の層があり、その穴から汗の水蒸気だけが出て、雨は通さないという仕組みで、これも繊維からの応用である。

3.事業展開の変革
 私が入社した1946年当時、東レは輸出最優良企業と言われていた。私自身、東レを選んだのは海外で仕事ができるからで、幸いにも希望どおりモスクワや欧州での駐在を経験することができた。東レはその後、海外展開をするにあたっては非常に苦労をしてきた。1971年、香港の華僑と提携して生産拠点をつくろうと考えた。華僑は難しく、なかなか太刀打ちできなかったが、粘り強い交渉の結果、協力関係を築くことができた。ただ、問題は、東南アジアに出て行くだけではなく、そこからいかにして世界にはばたくかである。我々は、東南アジアでの事業展開の成功により余力ができ、欧州、アメリカで買収を重ねた。現在は、日本、欧州、アメリカそれぞれの三極生産体制をとり、需給バランスを調整している。

4.人づくり
 1996年、当時100億円をかけて三島工場の隣接地に「東レ総合研修センター」を建設した。総延べ面積で3.4万平米。常時300人が宿泊できる。東レでは将来を担う原動力となる課長層を強化すべく、優秀な課長を選び、会社経営の能力をつけさせるための特別研修制度を長年に亘り続けている。研修終了後は、関係会社の社長または役員となり、経営に携わる。
 最後に、グローバルな人材の確保についてお話したい。これからの世界で対応していくためには、海外で日本の人材を育てるべきである。海外にいくと自分の国を客観的に見ることができ、そこでの経験がより人を大きくする。会社人間でありながら、会社を超えた度量、力量を身につけていくべきだろう。
 「日暮れて道遠し」というように、東レもまだこれからである。繊維を基礎として、もっと付加価値の高いものを求め、皆さんと共存しながら日本の繊維を世界の繊維に育てていきたいと思う。

[記者の一言]
当日は、矢野氏秘蔵の品、ムガ・シルクやご友人である画家の吉永邦治氏がムガ・シルクに描いた絵をお持ちくださり、ご披露いただいた。また、質疑応答では、東レの製品や技術開発の方向性、太陽光発電の開発予定についてなど次々と質問が飛び出し、大いに盛り上がった懇談会であった。



月度産業懇談会開催日程<場所は名古屋観光ホテルです>
グループ名 世話人 開催日時 テーマ・スピーカー 場所
火曜グループ 各務芳樹
深田正雄
4月8日(火)
12:00-14:00
在日米国商工会議所 中部支部ディレクター 伊藤義明氏のご紹介
名古屋米国領事館 商務領事 スティーヴン J.アンダーソン氏
「アメリカから見た日本とアジア」
18階
伊吹の間
水曜第1グループ 村博三
岩部一好
落合 肇
4月16日(水)
12:00-14:00
キリンビール(株) 取締役工場長 萩原壽彦氏
「キリンビールの商品開発」
18階
御獄の間
水曜第2グループ 片桐清志
谷田利景
4月9日(水)
12:00-14:00
三菱地所株式会社 ビル開発企画部 副長 恵良隆二氏
「東京 丸の内再構築と丸の内ビル」
18階
伊吹の間
木曜グループ 河村嘉男
山本美知子
4月3日(木)
12:00-14:00
ダイセー倉庫運輸(株) 取締役社長 加藤俊夫氏
「私の歩んできた道」
18階
伊吹の間

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当メールマガジンは、当初水曜第2グループで試験的に始まりましたので、仮称として「SUISUI」(すいすい)でスタートしました。現在全グループの参加が頂けるようになりましたのでこれを機に全懇談会の会員の方から正式な名称を公募いたします。永く親しまれる名前を是非ご提案下さい。
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【コラム】
名古屋“水と街道”散歩(早桜風土記

[その5:庄内用水]

笹倉 信行

一、 上飯田から稲生まで
 名鉄小牧線上飯田駅のすぐ北、矢田川べりに三階橋ポンプ所がある。庄内川の水を水分橋近くの元杁で取水し、矢田川の下を伏越によって通した堀川が再び表に現れる場所である。かつては、この付近に天然のプールがあって小さい頃このプールで泳いだ人達も沢山いるという。
 それにしても「三階橋」という名称は変わっている。堀川の水を通すための伏越が一階、矢田川の河床が二階、その上に人馬が通るための橋が三階という意味で三階橋と名付けられたという。
 三階橋ポンプ所で主流である堀川に向かう流れとは別に、庄内用水がポンプ所の西からスタートしている。庄内用水は現役の農業用水だけに、農繁期には満々と水を湛えているが、農閑期になると全く水が流れていない。
 非常に古い由緒を持つ羊神社のあるかつての辻村――現在の辻町の地内を庄内用水は西北西に真直ぐに向かう。用水沿いに街路樹もありまた付近の人々の手になる花もあり、春先に水を豊かに湛えた庄内用水沿いを走るのも爽快である。
 安井(かつての安井村)に入ると、庄内用水を真西に向きを変える。かつて庄内川と矢田川にはさまれた少し小高い場所である旧川中村の南裾を走る感じである。従って用水の北側には緩やかな上り坂、南側には昭和五年までの旧矢田川の河道に続く平坦な場所という地形の中を庄内用水は走っている。この周辺は街路樹、あるいは所々の親水空間を含めよく整備されており気持ちの良い散歩道となっている。
 国道41号線である黒川本通を萩野橋で越えるとまもなく光音寺町に入る。その名の通り曹洞宗の寺院である光音寺を中心としてできた町で、用水の南側には江戸時代の集落を思わせるような街並みが随所に見られる。桝形町に入ったあたりで南西に向きを変えるとともに、道路と交わるとしばらくその下に入ってしまって表に現れない。ようやく堅切橋で表に出た用水は再び稲生町の南側を西に向かう。
 稲生は天武天皇の時代に朝廷に稲を献上したことから名付けられたと、かつての稲生村の鎮守である伊奴神社の由緒にある。現在では伊奴(いぬ)と発音されているが、奴の国(なのくに)の例もあるので伊奴(いな)と読めばいかにも稲生(いなお)にふさわしい神社である。
 辻町から稲生町に至る間、不思議な位に多くの神社がある。辻町には前述の羊神社、安井には別小江(わけおえ)神社・六所社・山神社、中切町には天神社・神明社・金城町には六所神社、光音寺町には八龍社と多くの神社が庄内用水のごく近くに並んでいる。また、その多くが古墳状の小山の上に祀られているというのも珍しい。

二、 名塚町から日比津
 稲生町を過ぎ庄内通を越える所で庄内用水は南西に向きを変える。庄内通を越えた途端に立派な親水公園が現れる。用水を一旦覆いその上に水を使いまた植樹によって、一見すると庭園のような公園である。この公園の南端の東側にあるのが稲生原(いのうがはら)古戦場の跡である。織田家の家督をめぐり、跡を継いだ信長に対し有力な家臣団の支援を受けた信行が挑んだために起こった戦いであった。織田家の内紛とも言えるこの争い、軍事的能力に優る信長の圧勝に終わったという。有名な古戦場跡の割には敷地も小さくひっそりとした感じである。
 現在の庄内用水は、この後少し川幅を拡げながら真直ぐ南西方向に、大金町・鳥見町・笠取町などを通って児玉に至る。かつては名塚で庄内用水東井筋である江川が分かれていた。ちょうど庄内通り沿いに南下し浄心の交差点を過ぎると、旧町名に「江川端町」「江川町」があったが、現在では町名が大きく変わり僅かにバス停の名前で残っているに過ぎない。ただ市道江川線が有名であるので、江川の名前自身は川であった事実は別にしてよく知られている。江川が埋立てられたのは大正十二年頃というから川であった時代を体験している人は極めて稀である。
 名塚の周辺には塚と付く地名が多いのも一つの特徴である。名塚町の南には天塚町、南西には笹塚町と並んでいる。普通大塚など塚がつく地名には古墳があることが多いが、名塚周辺も古墳が散在していたのであろうか。
 さて康生通三丁目の三差路を渡った庄内用水はちょうど国道22号線を平行に南西に向かっている。かつての美濃街道を八坂交差点の近くで横切ると枇杷島スポーツセンタの敷地に入り見えなくなってしまう。
 栄生(さこう)と枇杷島の境を水の流れのようなうねりのある川筋で庄内用水は西南西に向う。ちょうどこの周りでは名鉄名古屋線そしてJRの東海道本線と東海道新幹線のガードの下をくぐり抜けていく。現代のテクノロジーの象徴と近世の農業用水の取り合わせも何故か絵になるような気がするものだ。
 猪之越町に入り田園地帯の中を行く用水も大きな道路に至ると突然見えなくなってしまう。日比津公園を過ぎ、日比津町とその西の諏訪町の境になって始めて用水が表れてくる。日比津町はかつては泥津(ひじつ)と呼ばれたという。泥江(ひじえ)に出来た庄内川の川港=津ということで泥津の名がついたという。おそらく中世の頃からか、対岸の萱津に向けた港町として発展してきたと見えて、かつての集落に入ると定徳寺・大円寺などの立派な寺院、そして古い家並みに昔日を感じさせるものがある。

三、 庄内用水中井筋
 中井川とも呼ばれる庄内用水中井筋は、日比津町の西側で表に出るものの五百メートル程度で本陣通にぶつかり、これより南では遊歩道になってしまい水の流れを見ることはできない。本陣通りより南南東に向かう用水は中村公園の東側をかすめ、名古屋駅南から中村へ向かう太閤通と交差する所に「楠橋」の名を残している。楠橋は今では全く見えないが、交差点やバス停でその名前が残っている。
 楠橋の直ぐ北東側にかつての中村遊廓があった。明治時代に作られた中村遊廓は、遊廓にふさわしい水べりをということで、西側に池を作ったという。そしてその池は遊里ヶ池と名付けられた。当然その水は近くを流れる庄内用水を利用したという。今では中村遊廓も無くなり遊里ヶ池も埋立てられてしまったが、その池の跡に作られたのが中村日赤病院である。
 ずっと南南東に向かっていた用水も日の宮町に至り大きく湾曲し、都市高速5号万場線のある細江通を過ぎると石板の敷きつめた道となって近鉄の烏森駅を越える。
 常磐小学校で再び表に現れ、その後は線路際を延々と南下し貨物ターミナル駅に至る。ただ万町付近で荒子川の水量を補うため、庄内用水の水が使われるためか、この周辺では見る影も無い程の川の流れになってしまっている。

四、 庄内用水西井筋
 日比津町の西側で表に現れた中井筋と離れてそのまま道路下を南西に向かい中村高校の東側を南下していくのが、庄内用水西井筋、またの名を稲葉地川である。ちょうど庄内川の流れに沿うように曲線を描いて流れていることから見ると、かつての庄内川の河道そのものであろう。用水のすぐ東側にある明神社(中村区東宿町)が萱津の東宿跡であること、萱津と萱津の東宿とは庄内川をはさんだ対岸にあったこと、そして庄内川は昔は今より東側に流れていたという記録等を合わせると、稲葉地川は中世の頃の庄内川の名残りであるように思える。
 庄内用水西井筋はその別名にある通り稲葉地町の地内を通り抜ける。この周りは最近美しい遊歩道に改修された。さらに南に下ると岩塚においてかつての佐屋街道と交差し、その交差点に岩塚石橋の名を残している。
 ひたすら道路の下を流れてきた稲葉地川が表に出るのは近鉄八田駅の西、野田の周辺である。野田、打出、法華と流れる間、ある時は開渠の流れであったり、遊歩道として整備されたり様々な顔を見せてくれる。国道1号線の周りに来ると江戸時代後期の自然の海岸線のあった地点らしく流れも非常に遅くなってしまう。
 これから先もほぼ真直ぐ南に向い、庄内川の河口付近で合流し用水としての使命を終える。

[編集部の一言]
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〔苗字アラカルト〕 No.10

片桐 清志

『桜・梅・桃』あれこれ

桜のシーズン到来だ。今回は春の花の代表選手、桜と梅と桃と苗字の関係に注目してみた。例によって人気ランキング(桜・梅・桃で始まる苗字の種類)ではチャンピオンは予想に反して「梅」で118種。桜は2位で58種、桃は30種だ。桜には旧字の櫻がありこれを加えるともう少し種類は増えるがそれでもトップは難しい。
 これは今でこそ桜は日本の国花にもなり桜が花の代表になったが、昔は梅が花の主役だったことにも関係ありそうだ。家紋でも梅はメジャーだ。また梅は実が食用にも広く用いられ、生活に深く関わっていたことも一因だろう。
 風情のある苗字では梅では「梅園」「梅花」「梅実(ウメザネ)」「梅月」「梅香」「梅鉢」さん、桜では「桜下」「桜湯」「桜美」さん、桃では「桃園」「桃山」「桃木」さん等がある。
ユニークなところでは「梅見」さんがいる。「花見」さんはいるが残念ながら「桜見」さん「桜吹雪」は見当たらなかった。
 一字姓の「梅」「桜」「桃」さんは実在する。三人がそろったらお互いにどんな顔をするか想像するだけでも楽しい。


編集後記
 今号では2月から3月に開催された各グループのスピーチ内容を紹介した。スポーツから「おもてなし事業」まで各界の多彩で新しい取り組みを紹介いただいた。参加者も5回の平均は約20名の盛況ぶりだ。講師の熱意のおかげと感謝している。4月のテーマも興味深いものが目白押しだ。時間の許す限りひとつでも多くの会に出てみたい。
 先日、名古屋市科学館が主催する発明発見創造クラブの実行委員会に参加した。このクラブは当会の岡部代表幹事の「子供たちに物づくりの喜びを」との提唱で14年度からスタートした。当会会員企業の活動支援金も44社、6百万円を超え、順調な滑り出しだ。
 この活動参加者も当初の予想を大きく上回り、科学館の関係者を喜ばせている。この活動の副次効果で13年度55万人だった科学館の入場者数も14年度はすでに70万人を超えるという。15年度は名古屋市教育委員会とのタイアップで「その道の達人派遣事業」の一環として出前ミュージアムも始めるという。教育問題は当会でも主要研究課題になっているが、教育現場でも新しい試みが始まっている。産業界と学校教育の連携がさらに進み、次代を担う子供たちの目がもっと輝くことを期待したい。 (片桐)