産業懇談会【メールマガジン 産懇宅配便】 第201号 2019.2.28発行

メールマガジン■産懇宅配便■

平成31年2月度(第201号) 目次
【31年1月度 「代表幹事講話」ならびに「新年合同懇親会」】 1月29日(火) 17時30分〜20時00分
【31年2月度 産業懇談会(水曜第2G)模様】 2月13日(水) 12時00分〜14時00分
【31年2月度 産業懇談会(木曜G)模様】 2月14日(木) 12時00分〜14時00分
【わたしの産懇】 Part2
エントリーNo.5 大同特殊鋼株式会社 取締役会長 嶋尾 正氏
エントリーNo.6 宝和工業株式会社 取締役会長 落合 肇氏
エントリーNo.7 東海エレクトロニクス株式会社 相談役 大倉 偉作氏
エントリーNo.8 株式会社小島釉薬製造所 取締役社長 小島 康敬氏
エントリーNo.9 株式会社NTTファシリティーズ東海 取締役 今井 秀哉氏
【名古屋いちばん物語】 No.117
【新会員自己紹介】
錦見 暢之氏

丸加化工機株式会社 代表取締役社長

柴山 一紀氏

ダイレクトメール代行株式会社 代表取締役

服部 健三氏

株式会社 千種橋ビル 代表取締役 歯科医師

【3月度産業懇談会のご案内】
【4月度産業懇談会のご案内】
【お知らせ】
【コラム】
コラム1 【さっかの散歩道】 No.8
コラム2 【保健師からの健康だより】 No.179
コラム3 【「ほん」のひとこと】 No.124
【31年1月度 「代表幹事講話」ならびに「新年合同懇親会」】

テーマ: 『 私の歩んできた道 』

日  時:平成31年1月29日(火) 講 話:17時30分〜18時30分
懇親会:18時45分〜20時00分
場  所:ホテルナゴヤキャッスル
参加者:96名
 

スピーカー:
須藤 誠一(すどう せいいち)
中部経済同友会 筆頭代表幹事
株式会社ジェイテクト 取締役会長


 1月度の産業懇談会では、4グループ合同で、須藤筆頭代表幹事をお招きし、恒例の代表幹事講話をいただいた。要旨は以下のとおり。

■故郷は東京下町
 昨年の富田代表幹事講話「ブラタトミ」にインスパイアされ、私も生まれ故郷の話から振り返っていきたい。
 私の故郷は、東京都墨田区鐘ヶ淵。荒川と隅田川に挟まれた下町で、スカイツリーや両国国技館のお膝元。隅田川を渡った台東区には雷門の浅草、荒川を渡れば葛飾区で「こち亀」の亀有や「寅さん」の葛飾柴又にも近く、鐘ヶ淵から少し北に行けば「3年B組金八先生」の舞台として有名になった足立区荒川の土手がある。


須藤 誠一氏

 また墨田区は歴史的エピソードの舞台も多い。まずは、平安初期、絶世のイケメン在原業平の東下りにちなんだ「業平橋」と「言問橋(ことといばし)」。言問橋は、隅田川に到着した業平が詠んだ句「名にし負わば いざこと問はむ 都鳥 わが思う人は ありやなしやと」に由来する。「都の名を持つほどの鳥であれば、京に残した思い人が息災かどうか教えて欲しい」、という句だ。また、同じく平安末期に創建された隅田川神社。源頼朝が関東下向時に創建したと伝えられる。今でこそこのあたりは内陸となっているが、当時は隅田川の落ち口(終点)であり、鐘ヶ淵は入り江の戸口であった。これが「江戸」の語源となったそうだ。

■榎本武揚のおかげで気管支喘息に!?
 鬼平犯科帳の長谷川平蔵や俳人小林一茶、小説家では森鴎外や幸田露伴など偉人との関連も深い当地であるが、特に明治維新期の偉人 榎本武揚は経済面での貢献度が高い。五稜郭の箱館戦争で投獄された榎本は研究に勤しみ、旧幕臣や親せきに獄中からせっせと手紙を送り続けた。内容は石鹸の製造、焼酎の蒸留法、硫酸の製造法など。獄中からの遠隔指導によって、墨田区は旧幕臣による殖産興業の舞台となった。
 その結果、当地では鐘紡や東洋紡などの繊維産業、ライオンや資生堂など石鹸産業、アサヒビールやゴム・皮革加工などの軽工業の発展とともに環境汚染が深刻化した。当時の高村光太郎の詩集「智恵子抄」に収録されている「智恵子は東京には空が無いといふ」という一節は、様々な意味があろうが、空が無いという言葉を直接的に捉えれば、当時の公害の凄まじさが偲ばれる。当地は住工混在で大気汚染がひどく、私も幼少期はひどい気管支喘息に悩まされたものである。

■徹夜で挽回した新入社員時代
 トヨタ自動車へ入社したのは1974年。同期は300人いたが、東京出身者は僅か5人だけ。今では三河は第二の故郷だが、当時は箱根を越えて下るのは都落ちという感覚だったのかも知れない。
 採用面接では、今では絶対NGだが、徹夜経験を聞かれたことを記憶している。意味が分からず「二日間徹夜で麻雀しました」と咄嗟に答えると、面接官はニヤッと笑みを浮かべ合格が決まった。
 新入社員時代は失敗の連続だった。プロジェクトに携わるも、金型は壊れる、部品の精度は出ない、溶接不良を起こす、都度現場の人に助けられながら連日の徹夜で仕事に取り組んだ。その頃になり面接官の質問の真意が身にしみて分かった。

■言い出しっぺでアメリカ赴任
 1990年代後半からの急速なグローバル展開が進んでいたが、海外拠点では成長に仕組みが追いついていなかった。北米の各工場でも日本のマザー工場が独自に仕事のやり方や人事を個別最適で仕切っており、北米を全体最適でマネジメントすることが急務となっていた。こうした課題を当時の上司である安川彰さんに進言すると、「じゃあ、お前が行け」ということで北米生産統括会社への赴任が決まった。50歳、英語もしゃべれないのに初めての海外赴任であった。
 赴任時は人材の多様化に伴って、トヨタのコアとなる経営価値観や行動規範を共有し、経営を委ねることができる海外人材を育成するために策定した「The Toyota Way」を浸透させるミッションも担っていたが、多くの米人たちと膝を突き合わせて毎日英語で語り合ったことで、社員の一体感が醸成され、改革が進んだように感じている。
 また北米でカルチャーショックを受けたのが、ジェンダーギャップ。男女平等の意識の浸透や女性の社会進出には驚かされた。またオフィスがやたら寒くて暗く、食いだめのように数ポンドの肉を食べる姿からはDNAが違うことを確信した。
 彼ら白人は、ヨーロッパの厳しい環境に適合した人たちで、寒く暗い洞窟で暮らしながら狩猟生活を行っていた。獲物はいつ来るか分からず、運よく獲れたら、次のチャンスまでは食いだめするしかない。味付けは岩塩でシンプルに、そして舌は筋肉が発達し複雑な発音が可能になった。この自説を拙い英語で「You have a muscular tongue. So your tongue moves well, but you are not tasteful.」と披露したところ大ウケであった。とにもかくにも人生の転機となった北米赴任であった。


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【31年2月度 産業懇談会(水曜第2G)模様】

テーマ: 『 住友商事グループのサステナビリティ推進及び環境への取組み 』


日  時:平成31年2月13日(水) 12時00分〜14時00分
場  所:名古屋観光ホテル 2階 曙の間
参加者:29名

スピーカー:
犬伏 勝也(いぬぶし かつや)
住友商事株式会社 
理事 中部支社長

スピーカー:
中西 正治(なかにし まさはる)
住友商事株式会社
サステナビリティ推進部 部長代理

犬伏 勝也氏

中西 正治氏


<冒頭ご挨拶〜犬伏氏より〜>
 総合商社のイメージといえば、私の入社した頃は「ラーメンからミサイルまで」と言われたように、取引や取扱い品目も非常に多岐に亘ります。また従来の生業は物品のトレードビジネスが主体でありましたし、ここ中部支社もメインは自動車関連、鉄道関連、航空宇宙関連の素材、部品、装備品といったトレードビジネスが現在も中心です。しかし、商社もビジネス基盤が徐々に変化しており、今後はトレードビジネスはむしろマイナーになり、自ら事業に投資し事業を手掛けるモデルへの変化が昨今の潮流となっています。中部支社でもまだ仕込み段階ではありますが、そのうちにこの地元名古屋でも「これは住友商事が参画した」と言われるビジネスや物件がご紹介出来るようにと取り組んでいます。
 さて、皆さんも最近よく耳にされる通り、国連が2015年に採択したSDGsへの意識が高まり、頻繁に耳にされているかと思います。持続可能な社会に向け2030年までに達成すべき17の分野と169の目標で構成された開発目標です。経団連も活動の指針として採り入れており、最近襟元にこのカラフルなピンバッジをつけていますが、これは会社として、また個人としてSDGsへの取り組みを宣誓しているということだとご理解ください。本日はこのSDGsに対する住友商事での向き合い方や具体的な取り組み事例についてご紹介をさせて頂き、ご参加各社様の今後のご活動にご参考として頂ければとも思っております。

<中西正治氏 講話>
■サステナビリティと別子銅山
 住友の歴史は17世紀に遡ります。初代住友政友が京都に書店と薬屋を開いたのですが、商人の心得として「文殊院旨意書(もんじゅいんしいがき)」を残しました。内容の一部を紹介すると「一人一人が単なる金もうけに走ることなく、人間を磨き、立派な人格を醸成すること」を求めており、現在まで続く住友のDNAの一つとなっています。
 その後、姉婿の蘇我理右衛門が粗銅から銀を分離する精錬技術「南蛮吹き」を開発。蘇我理右衛門の長男で政友の娘婿として住友家に入った住友友以は、大阪に進出、同業者に「南蛮吹き」の技術を公開しました。これにより住友・泉屋は「南蛮吹きの宗家」として尊敬され、同時に大阪はわが国の銅精錬業の中心となりました。元禄3年(1690年)に、伊予の別子銅山が発見されたのち、住友が開発と経営を担い、282年間に渡り銅を産出し、日本の貿易や近代化に寄与しました。現地には精錬所も設けられましたが、長年の銅山開発による木々の伐採と亜硫酸ガスによる煙害が発生し、銅山を荒れ果てた山々に変えてしまいました。明治33年(1900年)、住友総理事に就任した伊庭貞剛は、事業方針について「住友の事業は、住友自身を利するとともに、国家を利し、かつ社会を利するほどの事業でなければならぬ」(「自利利他公私一如」)と断言。この荒廃した山を憂い、原因の一つである精錬所を瀬戸内海の四阪島へ移設、そして山林を再生すべく年間100万〜200万本もの植林事業を断行しました。今では豊かな自然が蘇り、その深い森の中に産業遺産が点在する別子銅山は住友のサステナビリティ活動の象徴となっています。

■今こそ攻めのサステナビリティを
 持続可能な社会の実現というと、企業にとってコストを掛けて果たすべき責任、狭義の社会貢献活動など守りのイメージが強いですが、同時に事業を通じて企業の持続的な成長に繋げるという攻めの姿勢が求められるのが今の潮流です。企業は環境問題や人権問題など普遍的な社会課題へ対応するだけでなく、経営戦略や価値創造の仕組みとして落とし込めるかが問われています。社会課題をビジネス上の機会あるいはリスクと捉えられるか、自社の経営資源が活用可能か、長期的な企業価値向上へと転換できるかなど、考え抜いて活動につなげていくことが企業の持続的な成長に必要と認識しています。
 さて、住友商事はSDGsに向き合うにあたり、まずは住友の事業精神や住友商事グループの経営理念を見つめなおしました。そして、それらを踏まえて、事業活動を通じて自らの強みを活かして優先的に取り組むべき課題を、「社会とともに持続的に成長するための6つのマテリアリティ(重要課題)」として特定しました。当社の成長と社会課題解決の両立のための事業の方向性として「地球環境との共生」「快適で心躍る暮らしの基盤づくり」「地域と産業の発展への貢献」「多様なアクセスの構築」の4つを、そしてこれらの基盤となる経営姿勢として「人材育成とダイバーシティの推進」「ガバナンスの充実」の2つを特定。これら6つのマテリアリティはSDGsの17の目標の多くの分野を網羅できていると考えています。そして、このマテリアリティを、事業戦略の策定や個々のビジネスの意思決定プロセスにおける重要な要素と位置付け、事業活動を通じて課題を解決することで持続的な成長を図っていきます。

■住友商事における事例紹介(抜粋)
社会課題の解決に資するビジネスの戦略的開拓という点では、まだ道半ばというのが正直なところではありますが、特に深刻化する環境問題については、住友商事グループの環境方針に則り、ISO14001環境マネジメントシステムも最大限に活用して取り組んでいますので、いくつかの事例を紹介します。詳しくは、当社のホームページに掲載していますので、是非、ご覧ください。

  • 気候変動問題への取組み方針:
    「気候変動問題を重要な社会課題と認識し、事業を通じてその解決に貢献していく。その上で、温室効果ガス排出抑制に向けた取り組みと、エネルギーの安定供給という二つの課題に同時に取り組むことで、社会とともに持続的な成長を図る。」という基本方針を掲げ、世界各地での再エネ事業や周辺の新技術開発にも取り組んでいます。
  • 鹿児島県の過疎の島「甑島(こしきしま)」におけるEVリユース蓄電池プロジェクト:
    廃校跡に太陽光パネルと電気自動車(EV)で使用されたリチウムイオン電池を再利用した大型蓄電設備を設置しました。このEVリユース蓄電池システムを段階的に電力会社の系統へ接続させ、甑島に点在する複数の再エネをひとつの蓄電池でまとめて安定化し、島内にできるだけ多くの再エネを導入する検証を行っています。
  • 石垣島エコアイランドプロジェクト:
    観光資源である自然環境を持続的なものとするため、バッテリー交換式電動スクーターと交換式バッテリー用充電ステーションを導入してシェアリング事業を行い、「エコアイランド化構想」の実現をサポートしています。
  • ペットボトルの効率回収:
    飲料容器自動回収機(RVM:Reverse Vending Machine)をスーパーなど大手小売業の店頭に設置し、飲料用ペットボトル容器を選別回収、内部で容量を小さくする処理を施し、国内資源循環へ繋げる効率的な資源回収に取組んでいます。海洋のマイクロプラスティック問題が顕在化する中で、このような循環型社会実現に向けた取り組みは、今後ますますビジネス上の機会になると考えています。
  • 持続可能な森林経営:
    森林管理が環境や地域社会に配慮して適切に行われていることを客観的に評価・認定してもらうために、国際基準のFSC®森林認証を、ロシア極東での共同事業者であるテルネイレス社が保有する林区やニュージーランドで取得しています。テルネイレス社では、リボンカッティング方式(周囲に親木を残しながら伐採する方式により、その後の更地には自然に種子が落ち、芽が出て樹木が育ちます。)を採用しています。
  • BBOP(Business and Biodiversity Offsets Program:ビジネスと生物多様性オフセットプログラム)
    企業や政府、NGOを含む専門家等が参画し、生物多様性オフセットに関する国際基準を作成しようというイニシアチブです。BBOPは、生物多様性条約においても参照されるなど、生物多様性オフセットに関する国際基準となりつつあり、当社は日本企業として、マダガスカル・アンバトビーのニッケル鉱山の開発事業を通じて参加しています。
  • バードフレンドリー® コーヒー事業:
    生物多様性に配慮し、農家の安定収入にもつながる取り組みとして、バードフレンドリー®認証コーヒー(以下、BF認証コーヒー®)の輸入・販売を手掛け、住商フーズにてBF認証コーヒー®を取り扱っています。自然林と同様のシェード(木陰)を保ちながら栽培することで、環境保全や、そこで羽を休める渡り鳥の保護につながる取り組みです。米国スミソニアン渡り鳥センターがその認証基準を設定しました。

以上


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【31年2月度 産業懇談会(木曜G)模様】

テーマ: 『 名古屋妖怪街道と落ち延び街道 』


日  時:平成31年2月14日(木) 12時00分〜14時00分
場  所:名古屋観光ホテル 18階 伊吹の間
参加者:32名

スピーカー:
山田 彊一(やまだ きょういち)
現代美術作家

山田 彊一氏


<ご略歴>
1938年、名古屋城の北東(鬼門)1kmに生まれる。
1964年、ニューヨークで開かれた戦後発の「日本人アーティスト選抜十四人展」に最年少で出展、一躍注目を集めた。第三回中日美術展大賞受賞。国内外の美術館に50点ほどの作品が所蔵されている現代美術界の大家。「名古屋をアートでおもしろくする会 代表」を名乗り、地元名古屋の現代アート発展に注力されている。
近年は、力強くユーモラスな妖怪アートを次々と創作されている。
著書「名古屋力 妖怪編」、「妖怪 イン ニューヨーク」、「名古屋 妖怪三十六景」など。

■地獄の人生と芸術
 私は5年生ぐらいから、なんとなく死に対して恐れを抱いていた。寝る時に感じたのは、真っ白けの奈落に落ちるのではという感覚だ。こんな感覚に特に陥ったのが小学生・中二・高二・結婚を決めたあと。明確な目標が無い時期であった。怖いものには、とにかくぶつかるしかないと、その時に「死を描こう」と決心したのかもしれない。
 大学時代はとにかくモテなかった。狙うは学校一の美人だが、ひとまず絵で実力を誇示しようと同期・先輩を抜き去った。卒業時にはニューヨークの展覧会に選抜され、狙い通り女子にモテるように。順調に結婚もすることができたが、決して順風満帆な人生とはいかなかった。名古屋の画壇は年功序列で出る杭は打たれた。独自の芸術パフォーマンスを披露したり、後輩たちの芸術裁判闘争を応援していたりしていたところ、周囲からは「絵の才能がないから裁判やパフォーマンスに逃げている」と揶揄された。そういうわけで、実力勝負をしようと世界や日本のコンクールに打って出た。賞も多数獲得し、ようやく世間に認められるようになり楽になった。

■落ち延び街道は妖怪街道だ!
 妖怪とは何のことか皆さんは知っているだろうか?辞書で調べると、「不思議な力を持つ非日常非科学的存在」のことのようだ。そういう意味では神も仏も幽霊も包含してしまう存在だ。妖怪文化が発展したのは平安や江戸期であり、戦乱の少ない平和で幸せな時こそ庶民から自然発生的に作り出されるのが妖怪だ。だから、妖怪というのは創作するものであり、私が生み出したニューヨークや名古屋の妖怪は最初に作ったもの勝ち。私が創作した妖怪は多数あるが、いくつかは100年後も語り継がれるのではないだろうか。ちなみに中国は妖怪が多いイメージがあるが、ああいう陸続きの国は戦乱が絶えることがないので、そんな危ない国では妖怪という発想自体がない。
 さて、名古屋城から尼ケ坂、徳川園、旭ヶ丘高校、そして常光寺まで森が連なり緑のラインとなっていることは御存知だろうか。そのラインは落ち延び街道と言われ、尾張徳川家に万一の事態が起こった際に、木曽山中に逃げるための道であったとされる。密かに逃げるために、開発されることなく森として残されたのだ。そんな森だから安易に庶民を近づけたくなかったはずだ。そこで、「当地には妖怪が出没するという噂が流されていたのではないか?」と私は仮説を立てた。私の生家は落ち延び街道のすぐそばにあった大きな酒問屋だったのだが、実際、女中さんが決して近づかない森があり、私の両親から「辻斬りが多かった」とか「首が飛んでくる」とか「毒へびが出る」とか吹き込まれていたそうだ。改めて、この落ち延び街道に点在する旧跡を歩いてみると、例えば六所神社で行われる2月の祭りでは、ヘソの緒が棒に巻き付いたような飴が売られるが、マムシそっくりである。他にも、首塚霊神とか坊ケ坂とか定光寺の殉死者の墓とか、暗いエピソードには事欠かないのである。そんなわけで私は、落ち延び街道を妖怪街道、その中心尼ケ坂の森を妖怪銀座と名付け、妖怪街道に出没する妖怪を創作してしまったのだ。
 昨年、この妖怪たちを「名古屋・妖怪三十六景」という画集(※)としてまとめた。街道筋の名所旧跡ごとのエピソードをもとに36の創作妖怪を紹介しており、この妖怪を探訪する街歩き地図も掲載している。是非ご覧頂いて、妖怪ゆかりの場所を実際に歩いて体感してほしい。

※事務局注
講話では、この画集に登場する妖怪、例えば「飛び首」「尼亡霊」「光友カラス天狗」「妖怪・六所社マムシ」を一つ一つスライドで紹介頂きました。妖怪誕生秘話と東区界隈の昔話を交えつつ軽妙に語って頂き、会場は大盛り上がり。「妖怪の日」「幽霊の日」などのクイズに答えた方にはご著書のプレゼントもいただきました。
妖怪の絵はメルマガ掲載できないので、名古屋の妖怪の世界に興味のある方は、画集「名古屋・妖怪三十六景」をぜひ購入ください。
山田先生は、ブログでご自身の活動について綴っておられますのでこちらもご覧ください。
山田彊一氏公式ブログ「そして地獄そして芸術」 http://artistyamakyo.blog75.fc2.com/


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          産懇宅配便200号記念企画

特別寄稿 「わたしの産懇」 Part2

 200号を迎えた「産懇宅配便」。これを記念し、皆様からあつめた産懇の口コミ「わたしの産懇」。
前回につづきPart2−代表幹事はじめ5名の方のご寄稿を掲載いたします。

エントリーNo.5
『 産懇は会員交流の核 』

 大同特殊鋼株式会社
 取締役会長 嶋尾 正 氏(中部経済同友会 代表幹事)

 このたびは産懇宅配便200号まことにおめでとうございます。
 産業懇談会には代表幹事就任とともに入会させて頂いた。私は九州出身で愛知・東京・北米・また愛知と流転の会社生活だったが、通算では愛知が約30年と最も過ごした地域となった。それでも愛知・名古屋はなかなかに奥深く、産懇は当地の魅力ある場所の再発見そして個性溢れる異業種の面々と交流する抜群のツールではないかと感じている。
 スケジュールが合わず泣く泣く諦めることが多く、残念ながら通算で3回の視察会と合同ゴルフ会の参加にとどまっているが、それぞれが良い思い出。
 人生初の明治村では、明治時代のホンモノを細かな装飾に至るまで、贅沢にも学芸員さんを独占して説明頂き、また、新名神工事現場では、人生初の高速道路逆走やトンネル潜入を無邪気に楽しむとともに、将来のトラック自動隊列走行用レーン建設の余地を残した設計構想など、当地の未来を見据えた取組みを知る機会となった。
 産懇はその母体たる中部経済同友会にとっても大きな存在。産懇新会員は早速例会でスピーチの機会を与えられ、右も左も分からないまま産懇が自分ごととなり、まさに「わたしの産懇」「わたしの同友会」として愛着が深まっていくという、よく出来たエコシステムではないか!と。
 私はメールマガジンの愛読者の一人でもある。例会の詳細を伝えてくれるとともに、皆様のコラムも秀逸で、実は深田世話人の「住吉の語り部となりたい」がお気に入り。私のような転勤族にとっては当地の街づくりの歴史や通りの名前の由来などを手軽に学ぶことができるので、転勤族のための鉄板コンテンツとして推奨したい。
 最後に、産懇を築いてこられた先輩諸氏とメールマガジンを長年支えてこられた片桐代表世話人に深く感謝したい。また、これからも産懇には同友会会員同士の交流の核として益々発展して頂きたく祈念している。

写真:わたしの産懇5-1 写真:わたしの産懇5-2
写真:わたしの産懇5-3 明治村・新名神工事現場で無邪気に楽しむ嶋尾代表幹事。
自身が理事長を務める木曽駒高原CCでは、毎年恒例の産懇 合同ゴルフが開催される。
昨年は、見事3位入賞されました!

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エントリーNo.6
『 活かそう産懇! 』

 宝和工業株式会社
 取締役会長 落合 肇氏(水曜第1グループ世話人)

 産懇宅配便200号誠におめでとうございます。
 弊社は創立63年を迎えます。若い管理者も増え社内で“過去”を語る機会も減り、特に懇談やコミュニケーションの場が少なくなり過去の思い出を共有している社員がいなく、何となく淋しい限りです。社内報では時々寄稿しますが、過去の経緯や思いを綴る時もありますが、夢に至っては難しさと虚しさも感じる時もあります。
 弊社では、5年毎に記念誌も発刊しており、過去5年間の出来事と記録に残したい記事・写真等を重点に収録しています。その中で保存されている白黒写真やセピア色の写真に懐かしい当時の事や積み重ねてきた年輪と少しずつ変化し、成長してきたことに思わず手が止まり過去に浸るひと時もありました。
 さて、私は当会に入会し30年、その後世話人を仰せつかり25年が経ちました。企業スナップ写真を見て若かりし頃の面々との異業種交流を通じて切磋琢磨して来たことを思い出します。毎月1度開催される産業懇談会では、講演会や視察に参加することで毎回貴重な体験をさせて頂いていると感じております。昨年10月に開催された4グループ合同懇親会では、私が前々から企画したかった「マルベリーパープル」をお呼びでき、当日は皆様に楽しんで頂けたようで嬉しく、また一つの思い出にもなりました。
 この先も今まで以上、国内外ともに政治経済、海外情報など厳しい情勢が続き絶望することもあると思いますが、会員の皆様の貴重な先を読む考え方、体験談、エピソードに刺激を受け、元気をもらい気合でもって“前へ”の心構えで、相互に楽しく交流を深めて行きたいと考えています。今後共、皆様方産業懇談会をよろしくお願い申し上げます。

写真:わたしの産懇6-1 写真:わたしの産懇6-2

会場がダンスフロアへと一変した今年の合同懇親会(女性バンド「マルベリーパープル」)。
アカペラグループや和太鼓演奏など、活躍する若手芸術家を沢山ご紹介いただきました。

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エントリーNo.7
『 祝 産懇宅配便200号 』

 東海エレクトロニクス株式会社
 相談役 大倉 偉作氏(水曜第2グループ世話人)

 産懇宅配便200号達成を、会員皆様とともに心よりお喜び申し上げます。

 産懇は1981年設立、2002年宅配便誕生、そして来たるべき2020年には設立40周年へと、着実な歩みを続けていますが、その長寿の秘訣は、どのようなところにあるのでしょうか。ここに少々自分の思いを述べてみます。

 まず、須藤筆頭代表幹事をはじめとする、中部経済同友会トップ層の深いご理解をベースにして、

  • 一つ目は、岡部専務・事務局長以下、事務局皆様のたゆまざる日々のご支援、
  • 二つ目は、河村さん、片桐さん、両世話人代表の強力なリーダーシップ、
  • 三つ目は、懇談会・研修会各々の場の、講師との距離感の近さ、
  • 四つ目は、見学会・視察会の機会が多くあり、いわば体験型の学びの場の多さ、
  • 五つ目は、懇親ゴルフ会や合同懇親会などを通じた、活発な人的交流、

等々が、産懇を元気づけている大きな要因でしょう。

 勿論、小生も産懇の一員として、水2グループの片桐・高見両世話人をはじめ、メンバー皆様との温かい交流を通じて、沢山の学びと刺激を受けながら今日に至っています。

 それに加えて、今後も口コミをはじめ、産懇の良さを一人でも多くの方に知って頂くには、若い世代や外国人講師の招聘、日帰り前提の遠出の視察・見学会企画など、産懇活性化への提言や行動が更に必要と考えます。

 お互いに日々の生活を通じて、こんなことが知りたいな〜、あんなことが出来たらいいな〜、
様々なアイデアを出し合いましょう。

 我が家のインターホンは、お客様がボタンを押すたびに、相変わらず「サン・コーン」と快調に唱っています。

 皆様、これからもどうぞ宜しくお願い致します。

写真:わたしの産懇7-1 写真:わたしの産懇7-2

 ジェイテクトテストコースでピースサイン。(この数秒後、時速■?&△qでテストコースを快走!)
 見学会や講演後はいつも鋭い視点で質問をしていただける大倉世話人です。

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エントリーNo.8
『 産業懇談会は私の宝物 』

 株式会社小島釉薬製造所
 取締役社長 小島 康敬 氏(木曜グループ)

 中部経済同友会に佐伯進氏(ノリタケ)、青木信樹氏(名エン)のお薦めで入会させていただきましたが、当初は雑事に追われ産業懇談会には出席できずにいました。岩崎弥三郎氏(佐藤工業)のお誘いで木曜グループに参加させていただきました。
 当時の産懇メンバーは、澤木秀夫氏(丸栄)、河村嘉男氏(丸菱工業)、山本美知子氏(NTTテレメイト)が世話人で、最年長の島本準一氏(愛知)や、産懇皆勤出席のミスター産懇・伊藤時生氏(富士通)、鈴木作次郎氏(アイチコーポレーション)、樋田成二氏(アイコクアルファ)、松枝寅太郎氏(松枝衣装店)、村手光彦氏(名鉄交通)、梅島一嘉氏(キャッスルホテル)、杉本仁至氏(杉本組)、松井敬吾氏(松井鉄工所)、大岡洋三氏(サンセイ)、杉山交世氏(丸和機械)、鈴木建吾氏(八幡ねじ)、岡村つね子氏(トーアフォート)、北村明美氏(北村法律事務所)、九鬼綾子氏(ミックインターナショナル)等、多士才才の方々。講師のお話も未知の話題が多く、自分自身を鍛えなおすきっかけになると同時に、諸氏の方から拝聴する豊富な話題、体験エピソードや奇想天外な発想など興味津々なものばかりで、この出合いをご縁に現在もご交諠を頂き、私の宝物です。残念ながら故人になられた方もありますがまだまだお教えいただいておけばと悔やまれます。
 平成9年からはグループ交流が実現し、さらに多くの方々と出合う機会を頂き、より沢山のことを教えていただけることに感謝しています。
 最近では講話も楽しみですが、工場での生産工程や工事現場の作業過程等、また美術館や明治村等の視察も会員各位と同行すると博学の方が必ずおられたり、学芸員のお話も興味深く個人で行くのとちがう楽しさがあります。また、夏の産懇ゴルフは28年皆出席でメンバーの皆様と交遊させていただき幸せでございます。
 この産業懇談会が中部経済同友会の底上げ基盤になり益々充実発展していかれますことを願っています。今後とも明るく仲よく楽しく学んでいきましょう。

写真:わたしの産懇8-1 写真:わたしの産懇8-2

平成20年(2008)9月4日、いつもの観光ホテル会場に即席、高座ができあがり!
自らお着物をお召しいただき、新内浄瑠璃をご披露いただきました!

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エントリーNo.9
『 楽しみながら参加する産業懇談会 』

 株式会社NTTファシリティーズ東海
 取締役 今井 秀哉氏(水曜第2グループ)

 私が中部経済同友会に入会したきっかけは、弊社取締役の中北が転勤族であるため、地元名古屋出身の今井が良いと言われたのがスタートである。同友会の名前は良く耳にするが、どのような団体なのかも分からないまま引き受けることにした。
 残暑が厳しい8月下旬、世話人である片桐様に名古屋駅前の会員制の応接室で緊張しながらご挨拶をしたことは今でも鮮明に覚えている。片桐様からは、「楽しみながら同友会をどんどん活用して欲しい」と言われたが、その言葉の意味を理解するのはもう少し後になってからであった。
 9月の初参加では、名だたる企業の会員の皆様の前でご挨拶をした。緊張しながら自己紹介を終えホッとしたのもつかの間、片桐様からいきなり3月のスピーカーのご指名があった。会員の皆様の面前で案内されたとあれば引くに引けない状況、これこそまさに片桐様の戦術であったと後々気が付いた。
 3月のスピーカーでは、災害対策室長の時に経験をした東日本大震災の復旧活動をテーマに発表し、最後の結びとして週末に活動している名古屋城観光ガイドボランティアの話をした。
 スピーカーという大役を終え、暫くは傍聴者を決め込むつもりでいた所、突然に同友会の事務局から6月に名古屋城本丸御殿の見学会を計画するので、ガイドをしてもらえないかと依頼が舞い込んできた。まさか同友会で名古屋城をご案内するとは思ってもいない。元々人前で話をすることが好きなので名古屋城であれば尚更楽しみとなった。
 本丸御殿は、6月8日に全面公開である。見学会は28日なので日が浅く、私自身も1度しか入ったことがない。私は耳学問で知識だけは豊富であり私自身も本物を間近で見ることは嬉しさ倍増であった。会員の皆様をもてなすと言うよりは、自分が主賓であるかのように一番楽しんでいる。1年前に片桐様が言われた楽しみながらと言うあの言葉の意味が何となく分かったような気がする。
 同友会は、歴史のある団体であり会員相互の交流会の場でもある。多彩な趣味をお持ちの方が沢山におられる。毎月開催する産業懇談会にワクワクしながら参加している自分がいる。

写真:わたしの産懇8-1
平成30(2018)年3月14日に初スピーチ。
休日には名古屋城のボランティアガイドをされている
とのこと・・・。
写真:わたしの産懇8-1
・・・ならば!と、3ヵ月後の平成30(2018)年6月28日、
公開直後の本丸御殿見学会で、ガイドをお願いしちゃい
ました。今井さんはリピーター率No.1の人気ガイドです。

 200号記念企画「わたしの産懇」は、4月号まで連載していきます。お楽しみください!

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【名古屋いちばん物語】 No.117

テーマ: 『 「住吉の語り部となりたい」 シリーズ第94回 』

料亭つたも主人
深田正雄(栄ミナミ地域活性化協議会)

自由民権運動と秋琴楼事件

 昭和41年4月東海高校3年の深田正雄君はD組長谷川昇教諭担任のクラスに入りました。当時、少年サンデー・人気漫画「お化けのQ太郎」とそっくりで、あだ名は“お化け”、早稲田大学卒の文学士で日本史の先生、映画が大好き!学校をサボって映画館に入り浸りの友人が見つかり、“お化け“のお咎めと思ったら「T君、不登校で映画館に入りびたりか・・・高校で下らん授業聞くよりよっぽどましだ!だが、事前に休みを報告すること(卒業のため出席扱いすると思われます)、そして、面白い映画を見たら感想を先生に聞かせてくれ???諸君、活動写真はいいぞ!!俺も学生時代は年間200本くらいはみたぞ」と、豪語する物分かりのよい先生。日本史の授業は、ご研究テーマの名古屋地区の自由民権運動とヤクザのお話しばかりで感動の連続・・・正雄君は大の歴史好きとなり、「住吉の語り部」の元凶?となりました。

写真:長谷川昇先生
長谷川昇先生:日本史授業
写真:明治の広小路
明治の広小路 西より東を望む:秋琴楼・右下屋根、山田旅館・右中央、松坂屋・右奥、朝日神社・左下

 栄ミナミに関する印象的な2つの「お化け」の語るエピソードをご紹介しましょう。

 板垣退助遭難事件:明治15年(1882年)大隈重信総理は「立憲改進党」を組織し、国民の政治的関心が大いに高まり発足した国会期成同盟への活動において、「自由党」と覇権を争っていました。対する自由党総理・板垣は勢力の強い三河から愛知自由党・愛国交親社メンバーを核に、東海道遊説の旅を同年3月に開始いたしました。3月27日名古屋に入り、29日午前は大須大光院で、午後は門前町博物館で決起集会、イベントは「撃剣興行」のチャンバラショーで人集め。各地で興行して4月6日には桜花爛漫の岐阜・金華山麓で大演説会、旅館への帰途、待ち伏せていた壮漢に襲われ胸と手にかなりの傷を負いました。その時、流血の板垣総理が刺客を睨みつけ「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだ有名な「板垣総理岐阜遭難」の一幕・・・そして、同行の内藤魯一が堀川沿い(現栄1丁目)愛知県病院院長・後藤新平の来診を仰いで一命をとりとめたとのお話!

 長谷川先生曰く「治療で板垣は元気になったが、代わりに自由党の民権運動は死んだ!!」生徒は爆笑で大喜びの講義でした。

 もう一つは「秋琴楼事件」。栄広小路と南呉服町の交差点に明治屋がありますが、その場所は明治時代には「秋琴楼」という名古屋でナンバーワンといわれた一流旅館がありました。明治15年板垣事件のとき、退助も常宿として泊まっていましたが、翌年の明治16年(1883)自由党と立憲改進党が衝突。「秋琴楼」を舞台に政治抗争が勃発しました。

 愛知県で勢力をもつ自由党に対し、進出を企てる立憲改進党は、尾崎行雄らをはじめ弁士を東京より派遣、若宮八幡宮の敷地内にあった末広座で大演説会を開催しました。会場は足の踏み場もないほどの超満員。しかし、会場内では自由党の内藤魯一がこっそり指揮をとり、演説会を中止させようと手ぐすねひいて待ちかまえていたのです。

 尾崎行雄が舞台に上がり、自由党を弾劾する演説を始めた時、内藤が合図をすると、多数の自由党員が舞台に押し寄せ、会場は大混乱となり、演説会は中止となりました。

 これだけでは終わらず、翌日、秘密裡に立憲改進党の党員だけが集まり、旅館・秋琴楼で有志懇談会を開くことにしておりました。これを知った自由党員は夜、秋琴楼になだれ込み、汚物を詰めた酒樽を、会場の大広間に投げつけます。名旅館の掃除の行きとどいた広間は、異様な臭気を放ち汚物がまき散らされ無残な様子。これが「秋琴楼事件」です。

 長谷川先生が語るに「酒樽に木桶で、糞瓶(クソガメ)から糞尿を汲んだ!住吉の各町家には井戸と糞瓶が設備され、特に下肥として近隣の農家に配送する仕組みが素晴らしいゴミゼロ環境循環社会を形成していた。」とのこと。幕末から明治に至る、政治問題から汲み取り・生活文化史まで興味深くお話しされていました。一般的な暗記もの歴史には触れず、ユニークな切り口で生徒の向学心を高揚させた名伯楽ともいえます。

 明治10年代の愛知自由党の組織率は非常に高く尾張各郡では50%を超える地域も多かったようです。また、演説会などの会合には新政府となり廃刀令後、失業した剣術の師を中心に大相撲をまねて「撃剣興行」という武術ショーで集客、その後、剣道が存続するキッカケとなったともいわれています。

 自由党といえば弁士・川上音二郎が有名です。その頃、川上音二郎は慶應義塾学僕(雑用を手伝いながら勉強する生徒)・福沢諭吉の書生でしたが、しかし長続きせず、反政府の自由党壮士となったようです。明治16年に立憲帝政党員登録し、その後、世情を風刺した『オッペケペー節』(三代目桂藤兵衛作)を寄席で歌い、明治27・28年の日清戦争時に最高潮を迎えての大評判となりました。

 『オッペケペー節』のネタとして、板垣・秋琴楼事件は格好のテーマで、撃剣に代わる余興となったようです。音二郎の死後、妻・川上貞奴が諭吉の養子・福沢桃介と二葉館を中心に名古屋財界で活躍したご縁がつながってきます。実は、正雄の祖父・深田良矩は桃介一党の新会社設立新株引受の仕事に携わり、販売促進の接待場として大正2年に「蔦茂旅館」を購入したのが家業の始まりです。

 その後、秋琴楼は旅館千秋楼と店名を変えて、河文の番頭・杉浦さんが経営しておりましたが火事で焼失しました。そして、大正14年に杉浦ファミリーは八勝館の支配人・管理者として迎えられ現在3代目杉浦典男氏に至っています。八事地区の開発にともない八勝館は、名古屋の材木商だった柴田孫助が、明治初期に八事に別荘を建てたことに始まります。

 南呉服町と広小路角の跡地は、昭和13年に明治屋がビルを建設し、戦後曳家移転工法で東に移動したレトロな建物ですが、2014年5月に閉店しました。現在の所有者のダイテックのグループ会社は隣接する旧丸善名古屋ビル(現在コインパーキング)と合わせた敷地面積約3千平方メートルを使い、商業とマンションの複合施設を建設する構想を打ち出し、早ければ2015年にも着工するはずでしたが、明治屋ビルのテナントとの退去調整が難航しているようです。丸栄の再開発も遅々として進まず、広小路本通一帯のにぎわいづくりは暗雲が立ち込めて開発の遅れが気になります。

 また、明治42年の地図には西隣に「山田旅館」がありましたが、その後、大正2年に焼失してしまいました。息子の山田光成氏(明治40年生まれ、自宅はラシック南あたり)が慶応高等部卒業後、父の残した他の土地を売り「山田モト旅館」として23歳の時に再オープン、実家の経営再建。戦時中は下呂温泉で旅館を取得、誘客のために後払い月賦の仕組みをスタートして、クレジットビジネスの嚆矢といえます。1948年(昭和23年)41歳の時に、資本金40万円で、わが国初の割賦販売会社「日本百貨サービス株式会社(日本信販)」を設立し、現在は三菱UFJニコスとなっています。そして、1961年三和銀行と折半出資で「日本クレジットビューロー(JCB)」を設立されました。また、白壁の料亭桜明荘の維持運営に尽力され、岐阜美濃加茂市正眼寺のスポンサーとしても地域に貢献されました。私が米国より帰国し昭和56年頃ホテルオークラで開発担当をしているときに、祖父のご縁もあり本郷の日本信販本社にご挨拶に伺いました。お元気な山田翁はボクシング協会への思い入れを語られた後、「深田君、今世界一のリゾートといわれるハワイのカハラ・ヒルトンホテルを取得したいので、君の人脈で調査してくれ。」と依頼されました。残念ながら当時はヒルトンとの契約ががんじがらめで買収が難しい旨報告しました。晩年まで、宿屋の親父としての心意気を感じた次第です。山田翁は、城山三郎「風雲に乗る」のモデルとして有名です。享年79歳。

参考文献:『博徒と自由民権――名古屋事件始末記』長谷川昇著:中公新書、1977年

日本の歴史学者。大正11年横浜市生まれ、早稲田大学文学部卒業、東海高校教諭を経て東海学園女子短期大学教授を経て、名誉教授。専攻は近代日本史

『愛知千年企業』〈明治時代編第1部 明治前期/1883(明治16年)〉 北見昌朗著

北見氏制作の地図 写真:明治屋ビル全景
現在の明治屋ビル全景(2019.2・11撮影)
北見氏制作の地図より
明治42年広小路3〜5丁目南呉服町を挟んで
西・旅館千秋楼(秋琴楼)、東・山田旅館

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【新会員自己紹介】

錦見 暢之氏
火曜グループ

錦見 暢之(にしきみ まさゆき)
丸加化工機株式会社
代表取締役社長

【丸加化工機株式会社】
〒470-0206 愛知県みよし市莇生町原12
TEL:0561-32-2021
URL:https://www.meg-maruka.co.jp/

 弊社はポリウレタン成形(発泡)させる注入機の専業メーカーとして1969年に創業し、国内外、多くのお客様に製品製造プロセスのコア設備として弊社設備を納入させて頂いております。 また、ポリウレタンの混合技術から得たノウハウをもとにその他さまざまな自社混合装置(エラストマー・メトン・シリコーン・ナイロン注入成型機)の開発・製造も手がけております。

 ポリウレタンとは基本的に主剤と硬化剤を混合/反応させることによって生成されるポリマー(プラスチック)の事です。 配合処方および成形方法を変えることにより、軟らかいフォームクッションから硬い断熱フォーム、優れた弾性と高い耐摩耗性を持ち合わせたエラストマーなど幅広い製品がウレタンによって製造されております。  具体的な製品としましては、家庭用冷蔵庫や自動販売機の断熱材。 家具では寝具や椅子、ソファー。 そして自動車にはシートクッションやインパネ、ダッシュサイレンサーなど多くの部位に使用されております。 

 昨年7月より中部経済同友会の会員にお加えいただき、会員懇談会では様々な業種の方々から非常に興味深いご意見やご高話を拝聴させて頂きました。 本会の活動を通じましても、皆さまと交流を図り、新しい知見を経ることで見識を広め、勉励して参りたいと考えております。 今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。

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柴山 一紀氏
木曜グループ

柴山 一紀(しばやま かずのり)
ダイレクトメール代行株式会社
代表取締役

【ダイレクトメール代行株式会社】
〒462-0828 名古屋市北区東水切町2-28-2
TEL:052-982-8801
URL:http://dm-d.com

 ダイレクトメール代行株式会社の柴山と申します。宜しくお願い致します。

 2018年に親しい方のご推薦をいただき中部経済同友会に入会、そしてこの度ご縁がありまして産業懇談会木曜グループに参加させていただくことになりました。
 せっかくの機会・メリットで有りますので、出来る限り勉強会に参加させていただき、皆様との交流、情報交換を活発に行えればと思っております。
 私は1962年生まれの56歳、血液型A型、『一期一会』を信条に人と人との関わりを大切に感謝の気持ちを持って日々行動したいと研鑽しております。
 弊社は1966年に名古屋市東区で創業し2015年に現在地に本部を移しております。先代(父親)から代表を引き継ぎ15年ほどが経過しております。
 事業内容は民間企業のDM・通知書や県・市町村の納税通知などの郵便物や荷物などを封入梱包加工し郵便局・宅配業者への差出を代行しております。業種としてはメーリング・サービス業と言い、この10年ほどはプリント業務、物流業務にも力を入れ多様化する顧客ニーズに対応させていただいております。当然ながら送付物には宛名情報(個人情報)がつきものです。セキュリティ管理にも力を入れ顧客の信頼をいただいております。
 弊社の従業員・作業スタッフは300名ほどですが、このうち90%以上が女性であり、30才代〜60才代の主婦の方々が大半です。
 女性活躍を応援し、今日も元気な女性が活躍中です。

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服部 健三氏
木曜グループ

服部 健三(はっとり けんぞう)
株式会社 千種橋ビル
代表取締役 歯科医師

【株式会社 千種橋ビル】
〒464-0850 名古屋市千種区今池二丁目1番6号
TEL:052-733-0277

 この度、産業懇談会木曜グループに参加させていただきます、株式会社千種橋ビル 服部と申します。宜しくお願いいたします。
 1948年9月8日 70歳鼠歳生です。
 元来、私は、天白区にて歯科医療法人を営んでおりましたが、ビルの建て替えを機に、父の後を取り、不動産賃貸業を13年前より営んでおります。
 歯科医療法人は、医科医療法人として、息子が経営いたしております。
 縁ありまして、入会させていただき、70の手習いではありますが、宜しく、ご指導くださいますようにお願い申し上げます。

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3月度産業懇談会のご案内
グループ名 世話人 開催日時 テーマ・スピーカー 集合場所
火曜グループ

富田 茂
広井幹康
深田正雄

3月12日(火)
12:00〜14:00

『企業リスクから考える経営者の健康管理。
 〜人間ドックを受ける3つの利点〜』
医療法人尚豊会 理事長 与那覇 靖氏

名古屋観光
ホテル
18階
伊吹の間 

水曜第1グループ

淺井博司
足立 誠
落合 肇

3月20日(水)
12:00〜14:00

『県下唯一のインターナショナルスクール・
名古屋国際学園が目指すグローバル教育と中部の未来(仮)』
名古屋国際学園 渉外開発室室長
エリック オルソンキクチ氏

名古屋観光
ホテル
3階
桂の間
水曜第2グループ

片桐清志
大倉偉作
高見祐次

3月13日(水)
 12:00〜14:00

『感動エンジニアリング。NDS』
NDS株式会社 取締役社長 玉村 知史氏

名古屋観光
ホテル
18階
伊吹の間 

木曜グループ

河村嘉男
倉藤金助
田憲三

3月28日(木)
12:00〜14:00

『男の料理教室 健康レシピ』

キャッスル
プラザ
4階
菊の間

◆3/28(木)木曜グループにご参加いただく方には、詳細案内をお送りします。

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4月度産業懇談会のご案内
グループ名 世話人 開催日時 テーマ・スピーカー 集合場所
火曜グループ

富田 茂
広井幹康
深田正雄

4月9日(火)
12:00〜14:00

『企業市民として、地域社会とともに歩む』(仮)
東海東京証券株式会社
常務執行役員企画・管理本部長 合田 一朗 氏

東海東京証券
オルクドール
ホール

水曜第1グループ

淺井博司
足立 誠
落合 肇

4月17日(水)
12:00〜14:00
『企業理念にこだわって経営、
      そして現在クイックスが目指すものは!』
株式会社クイックス 取締役会長 服部 晋吾 氏

名古屋観光
ホテル
2階
曙の間

水曜第2グループ

片桐清志
大倉偉作
見祐次

4月10日(水)
12:00〜14:00

『スマホdeリレー®で起こした3つのイノベーション
〜受け身体質から主体性をもつ組織への意識変革〜』
株式会社構造計画研究所
名古屋支社長 妹尾 義之 氏

名古屋観光
ホテル
18階
伊吹の間
木曜グループ

河村嘉男
倉藤金助
田憲三

4月4日(木)
12:00〜14:00

『ドラマの元祖〜今熱い講談の魅力とは!』
講談師 一龍斎 貞弥 氏
ご講演と演目「角屋船の由来」をご披露いただきます。
名古屋観光
ホテル
18階
伊吹の間

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【お知らせ】

産業懇談会メールマガジン配信について

○メールマガジンの配信は無料です。配信をご希望でない方はお手数でも下記ボタンを押して、メールをご返信いただければ幸いです。ご意見などございましたら、そのメールにお書き下さい。

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【コラム】

コラム1 【さっかの散歩道】 No.8
コラム【さっかの散歩道】

長瀬電気工業株式会社
代表取締役 屬 ゆみ子

『 スターの椅子 』

 国民的アイドル、フィギュアスケートの浅田真央さんが引退してかれこれ2年が経つ。日本中の老若男女にとって、孫であり、娘であり、妹であり、お姉さんだった真央さんの引退は、テレビタレントや歌手ほどの“ロス”感はなかったものの、振り返ってみれば、ほとんどの国民が諸手を挙げて応援したアスリートは他におらず、真央さんのいなくなった「椅子」はなかなか埋まらなかった。
 そこに彗星のごとく現れたのが、今やテニス世界ランキング1位の大坂なおみ選手だ。昨年から今年にかけての活躍ぶりに加え、なおみ節という新語が誕生するほどの、英語と拙い日本語のインタビュー。そのまっすぐな天真爛漫ぶりに、みな心を鷲掴みにされたに違いない。コートの中で対戦相手のみならず、自分と戦う彼女の感情の動きは、テレビで観戦する私たちにも波動となって伝わってくる。それはまるで、氷上で演技しながらもどことなく幼気な浅田真央さんに対し「大丈夫!!トリプルアクセル絶対飛べる!!」と心の中で応援していた頃とオーバーラップする。勝とうが負けようが(こんな表現は選手に失礼かもしれないが)観客は全員が一体となって応援団と化す瞬間がそこにはある。

 最近スポーツ選手がよく口にするフレーズに、「プレーを通して勇気と感動を」というのがあるが、この言葉に違和感を覚えるのは私だけであろうか?常々感じているのだが、スポーツに勇気と感動は必要なのだろうか?ましてやアスリートは、それだけの為に日々研鑽しているわけではなく、それより大切な、目標としての記録のためだったり、勝利のためだったりするわけで、だからこそ自分を限界まで追い込む練習に打ち込んでいる。その結果として、見ている側がいろいろな苦労や挫折や、そこにたどり着くまでの頑張りをストーリー仕立てにして、勝手に感動したり勇気づけられたりしているわけで、そういう物語をいつもいつもアスリートに求めるのは酷な話である。普通に強くてサラブレッドのように頂点に立つより、苦労して一瞬の輝きに散る方が、確かに情緒的ではあるが、それはアスリート本来に求められる絶対的要素ではないと思うのだ。が、日本人は何故かそういうのが大好きで、マスコミにとっても御馳走だったりする。なぜならそれは「商品価値がある」からだ。
 実は私がマスコミを辞めた原因の一つがそれである。すべての人、モノ、文化、現象を商品価値に置き換えるということをマスコミ人は無意識のうちに行っている。タレントやモノなら、「売れるか、賞味期限は長いか短いか」、文化や現象なら、「いつまで視聴率アップにつながるか」。
 昔、とあるジュニアの水泳選手が目に留まり、この子は絶対オリンピアンになるから、ドキュメントで追わせて欲しい、と某大手放送局に持ちかけたが、対面したプロデューサーは、企画書を開こうともせず、引き出しに仕舞った。30年以上前である。ハンディタイプのビデオなどというものもそうそう出回っておらず、ましてや携帯もなく、追うなら、フィルムのカメラで、音声もカセットテープでと、些末な取材しかできない。番組の予算がつけば、局の機材で追うことができるのに…。結局ニュース素材の単発扱いで、ドキュメントとして彼女の成長記録は断念することになった。
 それから10年、彼女は立派なオリンピアンになったが、一方で過剰な取材に疲れ、不愛想で対応しない彼女に業を煮やしたマスコミは、ある意味ネガティブな扱いをし始め、結局彼女は表舞台から消えた。このときマスコミは彼女に何を求めたのか?彼女が彼女自身の鍛錬の結果、たどり着いた場所なのに、ちょっと対応が悪かったからといって(というか大変シャイで、人見知りをする選手だったからこそ、水泳という個人競技を選んでいたのだが)、そこから引きずり下ろす権利はマスコミにあるのだろうか?そしてまた、テレビの向こうの視聴者は、彼女の何を見ていたのか。
 この頃のアスリートたちはそのあたりのこともちゃんと心得ていて、マスコミ受けの良いことをうまく使い分けているようだ。その一方で、そんな計算や、外野の茶々も全く関係ないところに現れるのが「スター」なのであろう。大坂選手のインタビューは、誰もが笑顔で拍手するのだ。コーチと決別しようが、豪邸を買おうが、そんなことはどうでもよくて、兎に角グランドスラム4冠に向けて頑張ってほしいと、全国民(ちょっとオーバーか!)が願って止まない。まさに国民が待ち望んでいた「スター誕生」の瞬間だ。これからの彼女の頑張りから、目が離せない。

 他方、水泳の池江璃花子選手が、闘病に入るとニュースが流れて以降、さまざまなニュースやワイドショーで、応援の意味も込めて特集が組まれていたりする。一頃に比べれば優しい取り上げ方だが、病気こそ戦うのは本人だけで、他の誰も代わってはあげられず、応援といってもただ見守り、気持ちを寄せることしかできない。私は学生時代に親友を白血病で亡くしているが、一人っ子だった彼女以上に、家族の落胆は計り知れず、看護していたお母さまは、「娘の顔を見ると涙しか出てこず、どう接していいかも分からない」と、病院の待合室でいつも背中を丸めて私の手を握っていた。あれから40年、医学は目覚ましく進歩し、白血病も難病ながら治癒できない病気では無くなっている。池江選手が復帰し、再び活躍できるかどうかは、私たちの想像もつかないリハビリとトレーニングを要することだろう。そんな池江選手の「椅子」もまた、私の中にちゃんと残しておこうと思っている。

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コラム2 【保健師からの健康だより】 No.179
コラム【保健師からの健康だより】

株式会社 スズケン
保健師 稲垣 静香

『 隠れた流行り病 』

 今シーズン全国で過去最多を記録するほど大流行した、インフルエンザ。1月には1医療機関当たりの患者数は愛知県が最多となりました。流行のピークは過ぎましたが、3月に入っても注意が必要です。引き続き手洗い・うがい・咳エチケットをしっかり行いましょう。

 世界中で拡大している「隠れた流行り病」といわれるものがあります。それは「腎臓病」です。国際腎臓学会によると、世界における腎臓病の有病者は8.5億人であると推計しています。これは糖尿病の2倍、がんやエイズの20倍ともなります。

 腎臓は、血液から老廃物をろ過し、尿として体外に排出する機能を持つ、大切な臓器です。腎臓の機能が低下すると、老廃物が血液中に溜まり、顔や足がむくんだり、食欲がなくなったり、吐き気がするなどの症状が出ます。腎臓病の怖いところは、「Silent disease(静かな病気)」と言われるように、病気の初期にはほとんど自覚症状がなく、症状が出る頃には病気が進行していることが多いことです。しかも、一度悪くなってしまうと元に戻すことができず、病気が進行すると透析治療や腎移植を受ける必要があります。透析治療は、機能しなくなった腎臓に代わり、体内にたまった尿毒素を機器などによりろ過する治療法です。身体にとても大きな負担がかかったり、拘束時間が長いため日常生活に支障が出てきたりします。日本の透析治療は1人につき年間500万円ほどかかりますが、公的な助成制度があるため患者負担は軽減されています。

 腎臓病はかなり進行してから自覚症状が出ることが多いため、予防が難しいです。そのため、生活習慣全体の見直しと改善が一番の予防法です。排尿を我慢したり、お酒を暴飲したりすると腎臓への負担が増します。高血圧や糖尿病は腎臓の機能を低下させる原因になるため、それらの予防とコントロールをしっかりすることも大切です。早期発見と早期治療のために、定期的な健診を継続することは、重症化予防にもつながります。 

 3月14日は世界腎臓デーです。毎年3月の第2木曜日を世界腎臓デーと定め、腎臓病の早期発見と治療の重要性を啓発することを目的としています。規則正しい生活を送り、十分な休養を心がけ、大切な腎臓をいたわりましょう。

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コラム3 【「ほん」のひとこと】 No.124
コラム【「ほん」のひとこと】

株式会社 正文館書店 取締役会長
谷口正明

『 志ん生の食卓 』
美濃部美津子著・新潮文庫

 著者は、落語界における昭和の名人の一人・五代目古今亭志ん生の長女です。口述筆記なのでしょう、江戸っ子の話し言葉での文章は、よどみなく流れて行きます。「父」ではなく「お父さん」と呼ぶ行間には、お父さん志ん生への敬愛が溢れています。
 「お父さんの好みの食べもの」「外で好んで食べたもの」「家族の食事」の三部構成ですが、付録の「一家の愛したお店一覧」は平成30年10月現在のものが掲載してあり、今度東京へ行ったときに寄ってみようという気になりました。もう一つの付録・落語「替り目」は、志ん生夫婦もこんな夫婦だったのかもしれないな、と想像を逞しくさせてくれます。

 *平成20年にアスペクトから刊行されたものの文庫版です。

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【平成31年2月号編集後記】

 今では「マチュピチュ」の知名度も高くなった。産懇メンバーの中には実際に現地を訪問した方もいることだろう。アンデス山脈の2430メートルの尾根に位置する古代インカ帝国の遺跡だ。私自身は未体験だが、戴く年賀状の中には毎年1〜2枚が写真入りで届く。1983年に「マチュピチュの歴史保護区」として世界遺産に登録されて以来、「天空の古代都市」として南米ツアーのパンフレットの定番になって来た。遺跡の発見は1911年、アメリカの探検家ハイラム・ビンガムだが、この遺跡の麓のマチュピチュ村の開発に日本からの移民が大きく貢献したことはあまり知られていない。
 先日、マチュピチュ村の村長だった野内(ノウチ)与吉の話を、孫の野内セサル良郎さんから聴く機会に恵まれた。良郎さんは1975年ペルー共和国クスコ市生まれの日系ペルー三世で、1991年に来日、就労しながら勉学に励み、2005年に四日市大学を卒業している。今は日本人の奥さんと一緒に「日本マチュピチュ協会(マチュピチュ区役所公認団体):http://japanmachupicchu.wixsite.com/peru」を名古屋に設立し、会長として祖父の功績の調査と普及活動を行っている。
 与吉は1917年(大正6年)、21歳の時に契約移民としてペルーに渡った。当初は現地の農園で働いていたが、その後はクスコ・サンタ・アナ鉄道に勤務し鉄道敷設工事に従事している。この縁で、マチュピチュで生活を始めた。当時のマチュピチュは未開の地だったが、ここに水力発電を導入するなどインフラの整備を行い、1935年には「ホテル・ノウチ」まで開業している。村はこのホテルを中心に発展し、村民の人望を集めた与吉は1939年には行政官を務め、1948年には村長に任命されている。与吉が住み始めた頃は数家族だった村が今では人口7000人に増え、毎日3000〜5000人の観光客が訪れるまでに発展を遂げた。
 野内与吉の場合は孫の良郎さんによってその功績が知られ、良郎さんの働きで与吉の出身地である福島県大玉村は2015年にマチュピチュ村最初の友好都市協定を締結している。さらに与吉がペルーに渡って100年となる2017年には大玉村に「マチュピチュ村を創った日本人 野内与吉資料館」を開設した。時間の経過とともに先人の功績が忘れられ、埋没してしまうことが多い中で、誇るべき日本人の活躍を世に知らしめた活動に胸を打たれる。

(片桐)