産業懇談会【メールマガジン 産懇宅配便】 第194号 2018.7.31発行

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平成30年7月度(第194号) 目次
【30年6月度 産業懇談会(水曜第1G)模様】
【30年6月度 産業懇談会(木曜G)模様】
【30年7月度 産業懇談会(木曜G)模様】
【30年7月度 産業懇談会(水曜第2G)模様】
【名古屋いちばん物語】 No.111
【新会員自己紹介】
新木 典壽氏

名新パイピング株式会社  顧問

新里 尚紀氏

名新パイピング株式会社  代表取締役

【産業懇談会4グループ合同懇親ゴルフ会】
【9月度産業懇談会のご案内】
【お知らせ】
【コラム】
コラム1 【さっかの散歩道】 No.1
コラム2 【保健師からの健康だより】 No.172
コラム3 【「ほん」のひとこと】 No.117
コラム4 【苗字随想】 No.194

【30年6月度 産業懇談会(水曜第1G)模様】


テーマ: 『 サッポロビール名古屋ビール園浩養園 見学会 』


日  時:平成30年6月27日(水) 12時00分〜14時00分
参加者:17名

 今年もビールの美味しい季節がやってきた。そこで、今回は戦前から名古屋市民に親しまれているサッポロビール浩養園を訪れた。最初に愛知外食営業部部長の松村健司氏から歓迎のご挨拶のあと、広報室所属で文化広報顧問の端田晶氏よりビールの産業史についての講話、製造部マネージャーの野口博志氏による特別なビール白穂乃香開発に関するレクチャーと続き、最後はお待ちかね、白穂乃香を含む三種類のビールの試飲会を実施した。

<端田晶氏 講演『浩養園から遡る日本ビール産業史』>
■浩養園は江戸が本家!?

 沼津藩二代目の水野忠成が文政5年(1822年)に江戸の別邸に林泉式庭園として築いたのが浩養園だ。名の由来は孟子の言葉「浩然の気を養う」から取られ、「万物の活力の源」という意味がある。その後、浩養園の所有は秋田藩の佐竹氏へ移ったが、明治期になると名園「佐竹ガーデン」として開放されたそうだ。その後、明治33年にこの場所に札幌麦酒東京工場が建てられると浩養園は来客者の接待用として活用された。なお、今ではそこにアサヒビール本社が建っている。
 かわって名古屋。大正15年には工場建設ラッシュにのって大日本麦酒の名古屋工場が当地に建てられたが、その工場内接待所として昭和6年に開業したのが、名古屋の浩養園だ。江戸の本家と同様、林泉式回遊庭園の設計を取り入れたことから、この名前を継承した格好だ。



写真1
端田 晶 氏

■国産ビールの黎明期 〜四大ブランドの源流を探る〜
【キリンは横浜居留地から】 日本のビールの発祥は横浜。当時居留地には2千人の外国人が住んでいた。世界中の祖国からお酒が届いたが、唯一輸入が難しかったのが腐りやすいビールだった。明治2年には国産のジャパンブルワリーが誕生、その後スプリングヴァレーブルワリーを経て、明治18年には有名なトーマス・グラバーがキリンビールの前身ジャパンブルワリーを設立すると、三菱財閥の二代目岩崎弥之助も資本参加。明治21年にブランド麒麟麦酒が発売された。
【サッポロは北海道開拓使がきっかけ】 明治2年、北方の不凍港を探すロシアに対抗するため、黒田清隆が開拓使として派遣された。開拓予算は10年で1千万両。当時の国家予算が年間2千万両なので、凄い力の入れようだった。農業の近代化のため、お雇い外国人として米国からホーレス・ケプロンを招くと、その部下がホップの栽培を進言した。以降、このホップを使ったビール製造に力を入れることになった。
 明治9年、醸造家中川清兵衛が開拓使麦酒醸造所を立ち上げると、明治10年には早くも開拓使のシンボル「星のマーク」を冠した札幌麦酒が発売された。明治20年には大倉財閥の大倉喜八郎や渋沢栄一などが参画し札幌麦酒会社が発足した。
【アサヒは大阪で】 札幌麦酒に遅れること2年、明治22年に酒造業者の鳥井駒吉が大阪麦酒を設立した。衛生技師の生田をドイツに派遣し、最先端の醸造技術を学ばせた上で、明治25年に完成したのが大阪麦酒のブランド朝日麦酒だ。
【エビスはビアホールで一世を風靡】 明治20年に日本一のビール工場を目指し鎌田増蔵が設立したのが日本麦酒。長州閥の大物桂太郎の実弟桂二郎が社長になったので、三井財閥も出資した。明治23年には日本麦酒のブランド恵比寿麦酒を発売。三井物産出身の馬越恭平が社長になると、当時高級品だったビールの販売を増やすため四者(役者・芸者・医者・学者)にキャンペーンを張り、口コミでの認知向上を図ったそうだ。明治32年には恵比寿麦酒のビアホールを開店。士農工商の名残が残る時代に、身分関係なくビールを楽しむ自由な雰囲気が受け、恵比寿麦酒はダントツのトップシェアとなった。

■大会社の誕生、そして分散へ
 明治23年に100社あった日本のビール会社は、34年には23社と激減した。その原因が伊藤博文による日露戦争の戦費調達のための麦酒税導入だ。大手同士による生き残りをかけた戦いが起こった。札幌麦酒は東京浩養園に工場を建て販路を拡大。シェアを取られた日本麦酒(恵比寿)の馬越は堪らず札幌の大倉へ合併を提案した。これがきっかけとなり、麒麟を除く札幌・恵比寿・朝日の三ブランドが合併し七割のシェアを持つ大日本麦酒が明治39年に誕生し馬越が社長に就任した。
 大日本麦酒の合併話には、実は半田のご当地ビールも関わっている。四代目中埜又左衛門と甥っ子盛田善平が明治20年に興したのが丸三麦酒醸造所。加富登(カブト)麦酒として好評を博していたが、馬越による合併構想もあった。そこに先手を打ったのが、東武財閥の根津嘉一郎。明治39年に根津が丸三麦酒を買収すると、帝国鉱泉(三ツ矢サイダー)等を巻き込みながら日本麦酒鉱泉(ユニオンビール)を設立し販売攻勢を仕掛けた。ただ、この諍いも昭和8年の馬越の死去とともに収束した。結局、根津は日本麦酒鉱泉を大日本麦酒に吸収させる道を選んだ。
 なお、この大ビール会社は、戦後、財閥解体のあおりを受け、二つに分割されることになる。一つがアサヒ・ユニオン・三ツ矢の朝日麦酒、そしてエビス・サッポロ・リボンシトロンの日本麦酒だ。この動きの中で、もともと札幌麦酒が黎明期に工場を設立した東京の浩養園は、朝日側へと渡り、現在ではアサヒビールの本社地へと受け継がれている。

<野口博志氏 講話:白穂乃香開発ストーリー、試飲会>
 今までになかった特別なビールを作りたいという営業現場サイドの要望を受け開発したのが「白穂乃香」だ。無濾過で活きた酵母そのままの贅沢で華やかな香りのビール。実は最初に浩養園パブブルワリーで試験醸造した。都内の限られた店舗で販売し、お客さんに評価してもらったところ、非常に高い評価を頂いた。また、狙い通り差別化したい店側のニーズとも合致した。開発して10年経った2016年に、原点である名古屋の飲食店でも販売されはじめたので、是非愛飲頂きたい。

※試飲会では、浩養園でも販売している、「白穂乃香」、「ゴールデンエール(名水の雫)」、「ダークヴァイツェン(褐色の星)」の三種について、野口氏のレクチャーを頂きながら試飲するという贅沢な時間を過ごしました。サッポロさん、ありがとうございました!

写真2

写真3


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【30年6月度 産業懇談会(木曜G)模様】


テーマ: 『 名古屋城本丸御殿 見学会 』


日  時:平成30年6月28日(木) 12時00分〜14時00分
参加者:39名

 今回は、平成21年から足かけ10年、3期に渡る復元工事を経て6/8に完成公開されたばかりの名古屋城本丸御殿を見学した。本丸御殿は尾張藩主の住居かつ政庁として徳川家康の命によって1615年に建てられた。昭和5年には天守閣とともに国宝に指定されたが、昭和20年の空襲で焼失し復元が待たれていた。
 「尾張名古屋は城でもつ」との言葉通り、会員の関心も高く参加者は約40名の大所帯となった。この一行を迎えうつべく、ガイドとして名乗りを挙げたのが、休日に名古屋城のボランティアガイドを務めておられる水曜第2グループ今井秀哉氏(NTTファシリティーズ東海 取締役)。今井氏の声掛けでボランティアガイド仲間の桑沢英夫様と高須雅樹様の応援も得て、本企画が実現した。
 当日は、能楽堂内にある「日本料理大森」に集合。うなぎの昼食で力がみなぎったところで3グループに分かれ、いざ本丸へと出陣した。

■復元に掛かったお金と時間のかわりに得たもの
 江戸幕府将軍が宿泊する上洛殿を含む当時の城郭御殿は総ヒノキで、内観も障壁画や金物類など豪華絢爛なものだった。建物は焼失してしまったが、幸い、障壁画(1049枚)は事前に取外し、文献や写真や測図が残っていた。そこで、当時の材料や工法を研究し出来るだけ忠実に復元された。
 総工費は150億円、復元には10年掛かった。まず建築資材は国産ヒノキにこだわった。また、焼失前の屋根はメンテナンスが楽な瓦葺きだったが、創建当初のこけら葺きで復元した。こけら葺きは、劣化しやすく定期的なメンテナンスが必要だが、それは、修復技術が受け継がれるきっかけにもなる。そのほか、金物や漆喰等、細部の素晴らしい技術についても、技術や文化を次世代へと受け継ぐために、若い技術者がベテランから学びながら、一つ一つ丁寧に作業を行ってきた。


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御殿外観とガイドする今井氏
■いよいよ内部へ
<虎之間>

 来客者がまず通されるのが、玄関に当たる虎の間。障壁画は金箔をベースに虎が描かれており、当時の日本に馴染みのない異国の虎を描くことで、来客者に対し徳川の威厳を示したとされる。
<表書院>
 藩主と家臣の謁見の場として三之間〜一之間まであるが、それぞれの部屋の障壁画のテーマが面白い。三之間はジャコウネコ、二之間は秋、正式な謁見の場である一之間は桜とキジ、それを迎える藩主が座る上段の間には松が描かれていた。ちなみに、一之間に通されるのは限られた人物で、例えば犬山城主成瀬家はここで謁見できたそうだ。

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虎之間
<対面所>
 藩主や身内の内々の対面や宴会に使われた部屋。風俗画が描かれており、13才で紀州から輿入れした春姫を気遣い、生まれ育った紀州の風景の中で子供達が遊ぶような優しい絵も描かれていた。
<上洛殿>
 徳川三代将軍家光の時に上洛時の御座所として整備されたもの。障壁画、天井、欄間、金具どれをとっても最も絢爛豪華な装飾であるが、結局ここを使ったのは、家光と十四代家茂のみだったそうだ。
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上洛殿

■装飾類の格差にも注目!
 各種装飾は上洛殿を頂点とする明確な格差が付けられており、興味深い。欄干の彫刻、天井の意匠、釘隠(くぎかくし)のような金具類など、玄関から入って奥に進むにつれ、豪華になっていく。その変化の度合いを楽しむのも一興だ。

<天井の意匠の一例>
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【30年7月度 産業懇談会(木曜G)模様】


テーマ: 『 中電ウイング(株) 視察会 』


日  時:平成30年7月5日(木) 12時00分〜15時30分
参加者:17名

 今回は、中部電力(株)の特例子会社として平成13年に設立された名古屋市南区の「中電ウイング」を見学した。まず冒頭、中電ウイング(株)専務取締役の三澤弘一氏から概要説明を受け、その後の社内見学では各部署たくさんの障害者の方(中電ウイングでは「チャレンジド」と呼ぶ)から取り組みを紹介頂いた。

■概要説明(三澤専務取締役)
 現行の障害者雇用促進法では、従業員が一定数以上の民間企業に2.2%の障害者雇用を義務付けており、具体的には従業員45.5人につき最低1名ということだ。
 中部電力ではもともと障害者雇用を積極的に行ってきたが、平成10年の障害者雇用促進法改正時に、それまで未対応であった知的障害者の雇用義務が発生したこと、加えて重度の身体障害者にも対応すべきと考え、抜本的に雇用制度を見直すこととなった。特例子会社を設立することで、バリアフリー、安全な動線、多目的トイレ等、障害者が無理なく安全に働ける環境を目指した。なお、特例子会社は全国に約470社あり、うち愛知県は20社のみ。大企業の本社地に設立されるケースが多く、関東・関西に集中しているのが現状だ。

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 平成13年に設立された中電ウイングは開業時38名でスタートしたが、今日では障害者81名(身体障害14名、知的障害53名、精神障害14名)、管理者・指導者が44名の合計125名体制となっている。
 知的障害者の得意分野は集中力を切らさず、コツコツと真面目に仕事をすること。逆に苦手分野は複数の仕事や判断を要す仕事。また、雑談をしながらの「ながら仕事」も苦手とする。こういった彼らの強み・弱みを踏まえたうえで、仕事の創出を行うことが我々の役割だと思う。

■社内視察
中電ウイングの事業内容は、6つ。

  • (1)商事課:防災用品、制服、ノベルティ商品の包装/袋詰め/販売
  • (2)印刷課:デザイン、印刷、製本、ダイレクトメール
  • (3)アグリセンター:花壇維持管理、栽培、園芸商品の販売など
  • (4)ビジネスアシストセンター:本店支店の文書集配、コピー業務
  • (5)オフィスサポートセンター:本店支店の定型的な事務補助業務
  • (6)環境整備センター:主に日進市内の研修所(5万1千平米)の清掃業務

 今回は、中電ウイングの事務所内で行っている(1)(2)(3)の仕事を、各部署のチャレンジドの方にご案内頂いた。

(1)商事課
車いすの方も自由に動ける広々としたスペースでは、お中元やノベルティの受注事務、包装作業が行われていた。高さの変更が簡単に出来る作業台では、百貨店ではお馴染みの光景、多様な大きさの品物を包装紙で器用に包む作業を見学することができた。
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(2)印刷課
一人前になるのに10年は掛かると言われるオフセット印刷では、主に聴覚障害者の方が働いている。そのため、機械の異常検知や安全面での配慮から、三色のパイロットランプ表示などで工夫がされていた。

また、印刷課では、国際アビリンピック(障害者技能競技大会)の選手を2名輩出している。英文ワープロ部門では亀山氏が銀メダル、英文DPT部門では都築氏が惜しくもメダルを逃したが大活躍したそうだ。なお、都築氏は、印刷課におけるデザインのキーマンで、両足を使ってのパソコン操作をご披露頂き、参加者一同感服しきり。書道も得意で、中部電力のカレンダーにも彼の毛筆の書がデザインされているとのことだった。

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(3)アグリセンター
コンピュータで温度制御された温室で、タネから発芽させ花を栽培している。年間15万〜20万鉢にもなるそうだ。オリジナルの園芸製品である「木玉」もここで製造している。主に知的障害の方が働いており、4名毎に1名の指導員が付き、4年で一人前に育成すべく粘り強く取り組んでいるとのこと。
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 視察終了後は、活発な質疑が交わされた。
<主な質疑>
Q、皆さん、生き生きと元気に楽しく働いている印象。その秘訣は?
A、心を合わせる前に力を合わせることを心掛けている。食事会や社員旅行、スポーツ大会も含め、とにかく触れ合う機会を増やす。また困っている部署があれば、課の垣根を超えて全員で応援する風土を大事にしている。保健師さんも常駐しているが、全員でふれあいながら、全員で面倒を見る、この姿勢が良いのかもしれない。

Q、雇用開始後に本人の要望と合わない、或いは、仕事のミスマッチは起こっていないか?
A、まず学校と相談し、就職希望者は実習に来てもらい、更に本人とご家族に再度要望を確認する。その上で選考試験の手続きを踏む。入社後は適性を見て職場異動もあるが、サポートしている保護者への相談は欠かせない。ちなみに知的障害者の方を15年で58名採用したが、退職したのは結婚都合2名を含め5名のみだ。


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【30年7月度 産業懇談会(水曜第2G)模様】


テーマ: 『 意あれば道は拓く 』


日  時:平成30年7月11日(水) 12時00分〜14時00分
場  所:名古屋観光ホテル 3階 桂の間
参加者:32名

スピーカー:
下川 浩平(しもかわ こうへい)
株式会社進和
相談役

下川 浩平氏

■タイトルへの思い
 「意あれば道は拓く」とは、2015年に中部経済新聞マイウェイで連載するために私が設定したタイトルだ。これは、経営者の皆さん全員が共感する言葉ではなかろうか。50年の会社人生を経て私もまさにそうだと実感している。
 振り返ると私にとっての初めての「意」は、1967年に田舎の福岡大隈町から名古屋に出てきて進和で働くと決めたことだった。当時、東京や大阪には親戚や知り合いが沢山いたが、名古屋には誰もいなかった。自分一人で生活基盤を築いてみたかった私は、だからこそ名古屋の地を選んだ。それ以来、自分の意思、そして地の利・時の運・人の出会いにも恵まれ、会社とともに成長することができた。

■満鉄からスタートした進和の歴史
 満州国に南満州鉄道(満鉄)が設立されたのが1906年。実はその一年前に中国大連で進和商会が産声をあげた。満鉄の商社部門として各種資材を扱っていた。鉄道の枕木に固定する犬釘、レール同士を繋ぐプレートやボルトなど金属資材にも手を広げていった。最初は外注鍛造品を購入していたが、当時最新鋭の鍛造機を購入し内製も始めたそうだ。そんな進和商会も終戦とともに幕を閉じることになった。
 1951年、接合の進和として再スタートを切った。その黎明期にトヨタとの取引を得たのは大きかった。当時、日本の自動車産業は厳しい状況であったが、朝鮮戦争によりトヨタにも米軍の軍用トラックの特需が舞い込んだ。しかしながら、エンジンを製造するための量産鋳造技術が確立されておらず、ピンホール等の欠陥が発生してしまう。ほぼ完成した状態のエンジンに対し、欠陥部だけをなんとか溶接補修できないか、そこで進和の低温溶接棒が役立ったのだった。
 接合の進和として取引先の現場ラインに入ると、宝の山だった。様々な困りごと、ニーズが転がっており、ボトムアップで対応しながら、接合関係に留まらない周辺の仕事を取り込むことができた。現在では、溶接関係、FAシステム等の各種装置類、商社機能からメーカー機能まで業態を広げ、また、自動車メーカーの海外進出にも対応し海外拠点も拡充した。現在、売上高は500億円、従業員700名弱の企業グループとして成長し東証1部上場も果たした。

■助けになった、ものの考え方
◇豊田英二氏「私はモータリゼーションを起こした」
 カローラを武器にモータリゼーションを起こされた。経営者として、会社が進むべき方向性を明示し、それを実践し成果を自負されている。この姿勢は私に強烈な印象を残した。
◇ボストンルート128号「沈んだのは垂直統合型モデル」
 この高速道路沿いには、米国を牽引する素晴らしい大企業や工場群が存在した。しかし、頭から尻尾まで何でも自前でやれる自己完結の企業が多く、それは産業構造の変化とともに逆に閉鎖的、保守的な障害を起こした。現在はシリコンバレーのような水平分業型企業が変化に強いと言われる。ビジネスは自分で手掛けるべきところにまず集中する、足りない部分は他の力を借りる、明確で柔軟性のある姿勢は学びたい。
◇渡辺捷昭氏「大企業病」
 大企業でなくとも、患うと大変な病だ。他人の仕事が見えていても自分に関係なければ触らない、或いは、会議は議論するばかりで長時間議論したことに満足してしまう。また、なまじ成功体験があるばかりに、見直すべき病巣が隠され温存されてしまう。このような会社にしてはいけないと自戒として意識している。

■社員が気持ちよく働き、スキルアップできる職場を目指して
◇休暇制度は大胆に!
 社員にはしっかり休暇を取って良い仕事をしてもらいたい。そこで、1年に1回、5日間連続して有給休暇を取得するリフレッシュ休暇(土日で挟むと連続9日間)を制度化。且つ、休んだ社員には奨励金も支給している(社員5万、奥様3万、子供各1万円)。ここまでやると、社員は休んでくれる。休暇を取るためには、自身の生産性を上げ、休暇中の代役社員に段取りをしっかり引き継ぐ。そうすると引き継がれた者は新しい仕事を覚えるとともに、人の仕事の仕方を知る機会ともなるのだ。
◇海外でいかに多能工化を進めるか?
 中国の現場は欧米と一緒で契約社会、たとえば指定された担当のプレスは動かすが、担当以外は全く触らないのは当たり前。この風土を変えるべく、担当外の職務を覚えたら100元支給される多能工バッチを渡したところ、喜んで多能工へと変わっていった。また、製造マシンに工員の写真を貼ってあげると、自分のマシンとばかりに責任感を持ってメンテに励んでくれるようにもなった。
◇売上げ新記録賞は世界の全社員に渡そう!
 新記録が出れば全員に大入り袋を出している。日本も海外も、管理者も一般社員も関係なく一律の金額で渡すことが喜ばれる。さすがに、中国・東南アジア等の物価水準は加味するが。
◇中には失敗事例も・・・
 職場のライン長には、若い者と飯を食えと管理者手当として毎月10万円を支給したが、いつのまにか個人的な毎月の家計の足しになっていたので中止した。また、国内社員は海外慰安旅行を行っていたが、海外旅行まで先輩の顔色をうかがうのは嫌だと徐々に参加者が減ってしまったので、これも中止の憂き目に。 こんな失敗事例も多いが、だからこそ次に何をしようか考えるのが楽しみになるのだ。

■博多祇園山笠を名古屋に招致したい!
 私が所属している中京福岡県人会は来年創立50周年を迎えるにあたり、目玉の記念事業として祇園山笠の名古屋招致をすべく調整を進めている。丁度今(7/1〜7/15)、福岡では祭りの真っ最中、大変なにぎわいだ。これを名古屋で走らせ、震えるような感動と感謝を共有したい。福岡小川知事とも面会し議論したが、来年10月の名古屋まつりになんとかぶつけたい。実現に向け、是非皆さんにも応援いただきたい。


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【名古屋いちばん物語】 No.111


テーマ: 『 「住吉の語り部となりたい」 シリーズ第88回 』

料亭つたも主人
深田正雄(栄ミナミ地域活性化協議会)

末広町の風雲児・山田才吉

漬物製造「喜多福」若宮隣にオープン
 末広町・代々の旦那衆伊勢門水(1859年〜1932年)は御洒落会を主宰し、町衆文化を堪能されました。同時代のもう一人の奇人、山田才吉翁(1852年〜1937年)は岐阜市大仏町で出生し、若くして家を飛び出し、板前修業しながら江戸など各地を転々としていきました。明治11年、26歳で大須門前町漬物店を開業し、1880年(明治14年)5月15日、若宮祭礼にあわせて、末広町八幡社門前に間口12間の漬物屋「喜多福」を開店しました。この頃に「守口漬(守口大根の味醂粕漬)」を考案したとされ、これが評判を呼び、本町通に据えられた陣太鼓の威勢とともに紅白の幔幕が引き上げられました。例祭に繰り出した人々に長良大根と青瓜の守口漬けを大皿に盛り大試食会!
 表戸は総ガラス張り、色とりどりの香の物・鯛味噌、南蛮渡来のワインに洋酒!
北の町内・大久保見町の福禄寿車(現存)は店名の「福」と重なり縁起を担ぎ、全戸にウリの守口漬をプレゼント。末広町内には「末ながーくよろしく」と長良大根の守口漬を贈りました。この一件で、才吉は一躍、末広町の旦那衆の仲間入り。

住吉写真1
本町の喜多福 喜多福のホームページより

 末広町に店を構えたこともあり、才吉は地元財界からもヒッパリダコで名古屋商業会議所、市会、県会議員の公職、愛知県五二会と称する勧業団体を結成しております。1884年(明治17年)には日本缶詰を立ち上げて、愛知県下で初めて缶詰製造販売に参入。日清戦争・日露戦争で大量の軍用缶詰の注文を受けて、さらなる財をなしたようです。

道路開発から東陽通り商店街
 「民業奨励」政策で、缶詰工場用地として港新開地(現・東築地5号地)5万坪を県から払い下げてもらったこともあり、明治19年に元長州藩士・勝間田稔愛知県令(知事)より、喜多福と隣接する若宮北の「おたび所横町」から南鍛治屋町を経て千種村に至る道路の開発を依頼されております。当時の国道並みの4間幅(7.2m)として総延長1600間(約3q)の沿線地主を説得し、将来の鉄道整備に備える意向であったと思われます。

住吉写真2

勝間田稔愛知県令(知事)
1843年1月13日(天保13年12月13日)-1906年(明治39年1月30日)・幕末の長州藩士
1885年1月、愛知県令に登用され、1886年7月、地方官官制改正
に伴い同県知事となる。以後、愛媛県・宮城県・新潟県の各知事を歴任。
(ウイキペディアより)

 才吉は持ち前の器量と実行力を発揮、苦労に苦労を重ね、懸命に地域の了解を得ました。晴れて、沿線の工事に着手できたのは7年後の明治26年、時任爲基知事(薩摩藩士の息子)の時代になってからといわれています。当然、才吉は県の計画に便乗、前津小林、南武平町、南久屋町、そして、御器所村、千種村の大地権者となったようです。大津通から中央線千種駅南までの「東陽通り」は何と12丁目まで名古屋では最も長い町内として千種、吹上、御器所への幹線ストリートとなりました。
 そして、明治30年3月1日、才吉は、東洋一の都心リゾートといわれた遊園地付テーマパーク料亭「東陽館」を創業しています。
 東陽館については、名古屋いちばん物語 No.49で記しましたので、バックナンバーをご覧ください。(沢井鈴一の「俗名でたどる名古屋の町・東陽通り」)
https://www.cace.jp/kai/Wed2/backnumber2002/mm2704.html#nagoya1

守口漬元祖喜多福総本家と才吉の財界活動
 大正3年にきた福の番頭、安藤與吉が暖簾分けし、安藤商店(松喜屋)を広小路伏見に開業。3代目安藤米秋が戦後大活躍し、名古屋名物「なすからし漬」を発案。鉄道弘済会(キヨスク)で好評となり、現在は5代目安藤郁子さんが(株)喜多福総本家を承継、本店を中村区日ノ宮町に移転して漬物製造販売をされています。
 東陽館は明治36年に焼失しましたが、才吉は水族館・プール併設3階建「南陽館」を築地(現東築地小学校)に、可児市に木曽川河畔リゾート「北陽館」を開業。
 そして、大正4年には東海市聚楽園に鉄筋コンクリート大仏、海水浴場(現在の愛知製鋼)、料亭など海浜リゾートの先駆ともなりました。
 末広町からの財界人として、才吉の事業は、漬物・缶詰製造販売、「中京新報」新聞の発刊、中央市場(株)、大曽根市場のほか、南陽館へ誘客する電気鉄道事業「熱田電気軌道(株)」、名古屋瓦斯(株)発起人など、多岐に亘りました。

 家庭では、幼馴染の「なつ」と明治9年に結婚、苦楽を共にしながら、同年末に瀬戸で鰻蒲焼き「山才屋」を興し、夫婦で事業スタートしました。(翌10年に熱田に移転)。しかし、「なつ」は身体が弱く、子宝に恵まれることができず、親族の後継者を得ることはなかったようです。また、チャレンジした施設は火事や台風の災難に遭い、波乱万丈の人生といえます。詳しくは、「不屈の男・山田才吉」藤沢茂弘著をご覧になっていただきたく思います。
 今年5月に名古屋市教育委員会が発行した「ナゴヤ歴史探検」“名古屋近代化の礎を築いた11人の偉人たち”#9(P.76)に栄ミナミから唯一・末広町の山田才吉翁が紹介されていますので、下記にそのまま転載させていただきます。

引用と参考文献:
「不屈の男 名古屋財界の怪物・山田才吉」藤沢茂弘著 
発行:ブックショップマイタウン 平成25年4月1日刊
名古屋商人史話 林董一著 発行:名古屋市教育委員会 昭和50円12月10日
名古屋本町通りものがたり 発行:堀川文化を伝える会 平成18年3月15日

名古屋市教育委員会発行
2018年5月20日刊
「ナゴヤ歴史探検」
“名古屋近代化の礎を築いた 11人の偉人たち”#9(P.76)
より転載

住吉写真5
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【新会員自己紹介】

新木 典壽氏
火曜グループ

新木 典壽(あらき のりひさ)
名新パイピング株式会社 
顧問

【名新パイピング株式会社】
〒457-0821 名古屋市南区弥次ヱ町3丁目77番地
TEL:052-614-5800
URL:http://www.meisin-piping.co.jp

 中部経済同友会・産業懇談会の皆様 大変ご無沙汰致しております。
3年ぶりに再入会させて頂きました。以前は(株)明電舎での入会でしたが今回は管工事業・製缶工事業等を得意とする名新パイピング(株)としての入会でございます。どうぞ倍旧のお付き合いの程よろしくお願い致します。

 私の現在の住まいは東京ですが名古屋という街には本当に不思議な縁を感じております。
名古屋への第一回目の赴任は2000年4月〜2007年3月の7年間。
東海大豪雨(2000年9月11日)アメリカ同時多発テロ(2001年9月11日)も名古屋で経験しております。又 愛・地球博(2005年3月25日〜9月25日)には幾度となく足を運ばせて頂き、国際色豊かな博覧会で懐かしく思い出されます。また、政府代表の渡辺泰造大使とは半年間で9回ゴルフをご一緒させて頂きました。
 第二回目の赴任は2012年4月〜2015年9月の3年半。
この時に本会に入会させて頂き、様々な活動を通して貴重な勉強・体験をさせて頂きました。また何よりもこの3年半でお付き合いさせて頂いた方々とは、東京に戻った後も時に応じて交流を持たせて頂いております。
 合計10年半過ごした名古屋は私と家族にとって将に「第二の故郷」です。

 中部経済同友会及び産懇の魅力は3点あると感じております。

  1. 幹部の方々が社会的地位があるにも拘らず気さくに接して頂ける。
  2. 活動が活発で取り組み方によっては無限の勉強と他では味わえない体験ができる。
  3. 個性豊かな会員の方々が多く交流も活発で人の温かみがあり「出会いが宝」となる。

 今後とも以前同様ご指導ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。

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新里 尚紀氏
火曜グループ

新里 尚紀(しんざと なおき)
名新パイピング株式会社
代表取締役

【名新パイピング株式会社】
〒457-0821 名古屋市南区弥次ヱ町3丁目77番地
TEL:052-614-5800
URL:http://www.meisin-piping.co.jp

 この度、産業懇談会火曜グループに参加させていただきます、名新パイピング(株)新里と申します。宜しくお願い致します。

 弊社は創立2004年より現在まで、各種プラント工事をはじめ空調配管工事・機器、架台、槽、タンクの製作・メンテナンス工事等を施工してまいりました。
 設立前は様々な現場に立ち、現地作業から管理などをたくさんの経験してまいりました。
 10周年を迎えるに際し 活動活発な同友会に入会して更なる飛躍の為に皆さんと交流させて頂き勉強したいと思います。
 平均年齢35歳と若い会社ですが、即座に対応し信頼や実績を積み重ねて、従業員共々の力を合わせてお客様の声にお応えできるよう「人とのつながり」を基本理念とし造りあげております。

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産業懇談会4グループ合同懇親ゴルフ会

 産業懇談会では、恒例となっております4グループ合同の懇親ゴルフ会を下記のとおり開催いたしますので、ご案内申し上げます。

日時

平成30年8月4日(土) 7:15スタート

場所 木曽駒高原カントリークラブ
〒399-6101 長野県木曽郡木曽町日義4898-8
電話:0264-23-7001
対象者 代表幹事、直前代表幹事、常任幹事、監事、産業懇談会会員
(参加者は会員限りとし、代理出席はお断りさせていただきます)
備考 定員に到達したため、申し込みを一旦締め切りさせていただきます。
ご参加の方には別途詳細案内を送付いたします。

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9月度産業懇談会のご案内
グループ名 世話人 開催日時 テーマ・スピーカー 集合場所
火曜グループ

富田 茂
広井幹康
深田正雄

9月11日(火)
12:00〜14:00

『危ない会社の見分け方』
株式会社帝国データバンク
執行役員名古屋支店長 小川 孝司氏

名古屋観光
ホテル
18階
伊吹の間

水曜第1グループ

淺井博司
足立 誠
落合 肇

9月26日(水)
12:00〜14:00
『弊社海外拠点(タイ、アメリカ、中国、インド、メキシコ)
                       のお国柄、国民性』
イイダ産業株式会社 取締役社長 飯田 耕介氏

名古屋観光
ホテル
18階
伊吹の間

水曜第2グループ

片桐清志
大倉偉作
見祐次

9月12日(水)
12:00〜14:00

『三幸電子(株) これまで そして これから 
     〜計測機器メーカーから 異業種参入へ〜』
三幸電子株式会社 監査役 香川 裕子氏

名古屋観光
ホテル
3階
桂の間
木曜グループ

河村嘉男
倉藤金助
田憲三

9月13日(木)
10:0〜17:00
『新名神高速道路建設現場 視察会』
中日本高速道路株式会社
取締役常務執行役員 奥脇 郁夫氏
名古屋
商工会議所
正門前
(バス移動)

※見学会ご参加の方には詳細案内をお送りいたします。
※見学会は、定員がございますので、お早めにお申し込みください

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【コラム】

コラム1 【さっかの散歩道】 No.1
コラム【さっかの散歩道】

長瀬電気工業株式会社
代表取締役 屬 ゆみ子

『 Foyerの誘惑 』

 昨年から今年にかけて、オペラは「トスカ」の上演が続いている。昨年見逃した私は、先日東京の新国立劇場でやっと観劇することができた。トスカは、ジャコモ・プッチーニの人気演目だ。日本でもファンは多く、特にソプラノのアリアは名曲。
 オペラというと男性は敬遠しがちだが、要は昔風に言うドロドロの「メロドラマ」のミュージカル版である。特にプッチーニでは楽曲のドラマチックさにうっとりもするが、大体最後に主人公は、殺されるか自殺するか、非業の死を遂げるというあっけない終わり方をする。私もオペラをかじっているが、毎回レッスンで歌うたび何度も死んでいる。
 トスカのソプラノアリアも御多分に漏れず、第二幕で、愛する男の命を救うため、悪代官を殺す決意をする前に歌われるもので「歌に生き、愛に生き」という邦題がついている。『なんでこんなに真面目に生きてきたのに、私だけがこんな苦しい思いをするの?神様は私の祈りを受け止めてはくれないのね…』と神様への愚痴を、美しいフレーズに乗せて歌い上げるのだ。またその歌う時の姿勢がすごい。床に倒れた体を両手で支えながら、渾身の腹式呼吸で歌う体幹の強さと、支える上腕の筋力に圧倒される。声楽経験者なら、この体勢での歌唱がどんなに大変か想像に易い。また今回は、トスカに横恋慕する悪代官のスカルピア役が、本当にいやらしいほどの熱演ぶりで盛り上がり(2幕の最後でトスカに殺されるのだが)、全3幕(主人公は皆死んでしまう)終わってみると、カーテンコールは6回にも及んだ。
 そんな観劇を陰で支えているのはなんといってもFoyer(フォワイエ)である。いうなれば、劇場に併設されているバーカウンターで、幕間の観客のひと時を演出してくれている。名古屋の芸術文化センターで利用された方も多いだろう。新国立劇場のオペラパレスは、設立20周年ということもあったのか、常設に加え客席扉の横に3つほど別カウンターが置かれていた。まず、入場してすぐプログラムデスク、その横にはワインコーナー、その隣がスイーツとコーヒー、一番奥が常設カウンター(ビールやスナックメニュー)となっていた。ワイン好きは、客席確認よりも何よりもまずワインコーナーに引き寄せられる。メニューを見るとシャンパーニュ2種類、カヴァ1種類、白ワイン2種類、赤1種類の充実ぶり。到着したての汗止めにと、よく冷やしてあり、ソムリエが(居るのも驚きなのだが)2人対応に当たっている。シャンパーニュのローランペリエに至ってはエチケットが20周年のスペシャルバージョンに張り替えてあった(サントリーも粋なことを!)。始まる前になみなみ注いでもらった泡を片手に、中庭の吹き抜け横の席で駆け付け一杯。あまり一気飲みすると一幕目から眠気に襲われるかもと、思ったが、前出の悪代官スカルピアのおかげで寝る暇もなかった。最初の幕間は気分的にカヴァ。そして最終幕前には白ワイン。シャルドネとアイレンが用意されていたが、物語の雰囲気的にはアイレンか…、などと飲み分けながらふと思った。
 「もしかして、今日のワインのラインナップは、演目に合わせて用意されていたのではないか?」
 オペラとワインのマリアージュ!。なんて粋なことをするのだろう。世界中にオペラハウスは数多あれど、そこまで考えられているFoyerは、多分有名アーティストの会か、主催が凝っているか…。ん〜いずれにせよ名古屋ではこんな洒落たこと考える人は、残念ながらいないかも…。と一抹の寂しさを感じながら、むかし通ったリヨンの新オペラ座を懐かしく思い出した。
 劇場に行ったとき、そこにある施設、雰囲気は、すべて観客を楽しませる演出になり、無駄なものはないのだということを改めて感じ、トスカを歌うために、ちょっとたばこの数を減らしてみるか…などとわが身を振り返りながら、西日射す劇場を後にした。

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コラム2 【保健師からの健康だより】 No.172
コラム【保健師からの健康だより】

株式会社 スズケン
保健師 丹羽 香織

『 気になる血中脂質 』

 厳しい暑さが続いていますがいかがお過ごしでしょうか。夏は汗を沢山かいて体内の水分が不足しがちになる為、血がドロドロした状態になり血管が詰まりやすくなります。実は脳の血管が詰まって発症する脳梗塞は夏に多く起こりますが、その引き金となる動脈硬化の危険因子の一つにコレステロールや中性脂肪などの血中脂質の異常(脂質異常症)があります。

 コレステロールは、体を維持するために不可欠の脂質であり体内で一定量になるよう調整されています。動脈硬化の進行に影響するコレステロールには、肝臓から全身にコレステロールを運ぶLDLと全身から肝臓にコレステロールを運ぶHDLがあります。LDLは体にコレステロールを貯めるので「悪玉」、HDLは回収するので「善玉」という言い方をされておりこの2つのバランスが崩れると動脈硬化の原因となります。
 一方、中性脂肪は体内で最も多い脂肪で糖質が変化したものです。エネルギー源として利用されますが、血液中に増加すると動脈硬化を進行させます。

 脂質異常症の恐ろしい点は、自覚症状のないまま動脈硬化が進むことです。動脈硬化が進行すると血管は硬くなりひび割れた古いホースのようになります。その中を脂肪や糖でドロドロになった血液が流れ続けると詰まったり破裂したりして、最悪の場合ある日突然脳卒中や心筋梗塞などの致命的な合併症を発症します。痛くもかゆくもなく進行して大爆発してしまうので予防が大切です。

●LDLコレステロールを減らすには、

  • 動物性脂肪(肉の脂身・乳脂肪など)を摂りすぎない
  • トランス脂肪酸の多い食品(マーガリン、洋菓子、スナック菓子など)は控える
  • コレステロールの多い食品(レバー、卵類など)は控える*
  • 食物繊維の多い食品(野菜、海藻、きのこ、こんにゃくなど)を食べる
  • DHAやEPAを多く含む青背の魚(アジ・イワシ・サバなど)を食べる
  • 大豆製品(納豆、豆腐など)を食べる

●中性脂肪を減らすには、

  • 食べ過ぎず飲み過ぎず(炭水化物・甘いもの・アルコール・油ものは控えめに)
  • 適度に運動する(ウォーキングや水泳などの有酸素運動)
  • DHAやEPAを多く含む青背の魚(アジ・イワシ・サバなど)を食べる
  • 大豆製品を食べる

●HDLコレステロールを増やすには、

  • 適度に運動する(ウォーキングや水泳などの有酸素運動)
  • 禁煙し受動喫煙も避ける

 ポイントは基本的なことですがバランス良く食べよく動くことです。少しでも気になっている方はぜひできそうなことから取り組まれてくださいね。

*注:健常者においてコレステロールの摂取量と血中コレステロール値の相関を示すエビデンスが十分ではないことから「2015年日本人の食事摂取基準(厚労省)」よりコレステロール摂取量の上限値が撤廃されましたが、LDLコレステロール値が高い人については従来どおり摂取制限が必要と日本動脈硬化学会は指摘しています。

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コラム3 【「ほん」のひとこと】 No.117
コラム【「ほん」のひとこと】

株式会社 正文館書店 取締役会長
谷口正明

『 護られなかった者たちへ 』
中山七里著・NHK出版刊

 「どんでん返しの帝王」の異名をもつ岐阜県出身の作家・中山七里による、悪人の登場しない殺人ミステリーです。
 生活保護の現場を克明に描くことを通して、組織と個人、善悪の基準などに問題を投げかけています。ミステリーとしての面白さだけでなく、作家の「護られなかった者たちへ」の温かい眼差しを感じ取ることができました。文章もこなれており、一気に読み通しました。

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コラム4 【苗字随想】 No.194
コラム【苗字随想】

片桐清志

苗字で涼しく

 暑中お見舞い申し上げます。梅雨が明けたらいきなり35度超えの猛暑だ。せめてこのコラムだけでも涼しい内容にしたいと思い、今回は「涼しい苗字」を追ってみた。
 先ず思いつくのが「氷」だ。「氷」で始まる苗字は37種見つかった。一字姓の「氷」さんも見つかった。呼び方もズバリのコオリだ。そのほかにヒがある。さすがにランキングは53000番台なのでお目にかかるのは難しそうだ。涼しそうな苗字では「氷室(ヒムロ)」や「氷上(ヒカミ・ヒガミ、残念ながらヒョウジョウの読み方はない)」は目にしたことがある苗字だろう。氷室のランキングは7200番台、氷上は17000番台だ。ランキングで上位のものでは「氷見(ヒミ)」が6200番台、「氷川(ヒカワ・ヒガワ)」が24000番台に出てくる。ユニークな苗字では「氷山(ヒヤマ)」、「氷海(ヒウミ・ヒョウカイ)」が見つかった。ちょっとドッキリなのが「氷熊(ヒグマ・ヒクマ)」で、ランキングも21000番台で37種の中では比較的上位だ。
 「冷」で始まる苗字も12種見つかった。こちらは残念ながら一字姓は見つからなかったが、涼しそうな苗字では「冷水(ヒヤミズ・ヒエミズ・レイスイ他)」で、ランキングも5500番台と上位に位置する。「冷泉(レイゼイ・レイセン・シミズ他)」はランキングでは20000番台だが、鎌倉時代から続く公家で、歌道や蹴鞠で有名だ。ユニークな苗字では「冷酒(ヒヤザケ)」や「冷飯(レイハン、さすがにヒヤメシの読みはない)」が見つかった。
 「涼」姓も6種見つかった。「涼川(スズカワ)」、「涼木(スズキ)」、「涼樹(スズキ)」、「涼村(スズムラ)」、「涼野(スズノ)」「涼源(リョウゲン)」だ。芸名などに登場する「涼風(スズカゼ)」は残念ながら見つからなかった。
 なお、「水」はNo9で、「海」はNo157で、「山」はNo158で紹介済みなのでここでは割愛した。

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【平成30年7月号編集後記】

 先日、T氏夫妻と一緒に食事をした。以前から年に何度か、家族サービスと称してお互いの夫婦でおいしい料理を味わっている。夫婦二人だけの食事は会話も途切れがちだが、二家族の食事だと会話が弾む。ほとんどは四方山話だが、たまに雰囲気を変えるのも老化防止に役立つ。
 食事が終わった頃に「生まれ変わったら何になりたいか?」が話題になった。その時のT氏の答えがユニークだ。「僕は生まれ変わったら植物になりたい」と言う。おいしい食事ができる境遇に感謝した後の会話だ。T氏のこうした意外性が脳を活性化してくれる。T氏曰く、「植物は動かないけど、すべての生き物を支えている。光合成という素晴らしい仕組みは植物しかできない。」
 「人間は万物の霊長」などと言う発想とはまるで逆だ。言われてみると確かに植物のおかげで我々は生命を維持できている。酸素は光合成の賜物だし、エネルギーのもとになる炭水化物も光合成の成果物だ。ごはんもパンもワインも植物の恵みだ。肉だってミルクだって牧草や穀物がなければ我々が口にすることはできない。食物連鎖の原点に存在しながら植物自身は動物を食べることはない。動物は他の命を食べないと生命を維持できない。
 植物も子孫を残す仕組みを持っているが、その多くは自己増殖だ。風の力で受粉するし、種に命を宿して風や水に身を任せて生活圏を拡大する。時には鳥に食べられて糞として遠くまで運ばれて発芽する。虫に蜜を提供して受粉を助けてもらう植物もいる。身を削りながらの繁殖だが共存共栄の原点だろう。
 落ち葉は自分の足元の土を豊かにし、水を貯え、きのこを育て、多くの虫を養う。枯れた木は倒れても苔を養い、苔を餌にする虫や動物を育てる。「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」と言うけれど、植物は何も主張しないが、無駄が全くない。最後は土に帰り次の命のゆりかごになる。
 「食事は体を作ってくれるが、読書は心を豊かにしてくれる」がT氏の口癖だ。そんなT氏の一言が私に「植物の生き方」を考えるきっかけをくれた。猛暑や豪雨や地震など命を脅かす災害はたくさんあるが、植物はそうした天変地異を生き延びてきた。生きるのに都合の良いことばかりではなく、都合の悪い環境にも適応する粘りを持っている。泥水の中からも緑が芽吹く。溶岩台地でも最初に生命活動を開始するのは植物だ。我々人間よりはるかに長い時間をかけて獲得してきた「生き延びる知恵」に学ぶことが多い。

(片桐)