産業懇談会【メールマガジン 産懇宅配便】 第142号 2014.3.31 発行

メールマガジン■産懇宅配便■

平成26年3月度(第142号) 目次

【26年2月度 産業懇談会(水曜第1G)模様】 2月19日(水) 12時00分〜14時00分

【26年2月度 産業懇談会(木曜G)模様】 2月20日(木) 11時15分〜16時40分

【26年3月度 産業懇談会(水曜第2G)模様】 3月5日(水) 12時00分〜14時00分
【26年3月度 産業懇談会(木曜G)模様】 3月6日(木) 12時00分〜16時50分
【名古屋いちばん物語】 No.57
【名古屋いちばん物語】 No.58
【4月度産業懇談会のご案内】
【5月度産業懇談会のご案内】
【お知らせ】
【コラム】
コラム1 【保健師からの健康だより】 No.120
コラム2 【「ほん」のひとこと】 No.65
コラム3 【苗字随想】 No.142

【26年2月度 産業懇談会(水曜第1G)模様】

テーマ: 『 日本の「ものづくり」を支える空調技術の歩みとこれから 』

日 時:平成26年2月19日(水) 12時00分〜14時00分
場 所:名古屋観光ホテル 18階 伊吹の間
参加者:21名

スピーカー:
知見 扶公(ちけん もとひと)
株式会社テクノ菱和
取締役 名古屋支店長

スピーカー:
田村 一(たむら はじめ)
株式会社テクノ菱和
技術開発研究所
課長 主任研究員

知見 扶公氏 田村 一氏

 本日は、当社の技術開発研究所の田村より『日本の「ものづくり」を支える空調技術の歩みとこれから』について説明させて頂きます。その前に、私からは当社の経営スタンスの一端をお話しします。
 私どもは1949年にレイト工業株式会社として、名古屋市瑞穂区熱田東町に設立された名古屋生まれの会社である。設立当時は、冷凍機の販売・組立を主業としていた。初代の社長は「企業の財産は人づくりだ」という考えの持ち主であり、今もそうした考え方が脈々と続いている。当社は1965年に長野県の白樺湖に山荘を造っているが、その施設は従業員の研修に利用されている。毎年、新入社員は入社してから4月〜6月中旬までの間、その山荘で缶詰め状態にされて教育を受ける。業界内では、「菱和学校」と言われるほど社員教育を徹底している会社です。

1. 会社紹介
 当社は1949年にレイト工業(株)として設立された後、1953年に商号を菱和調温工業に変更した。1966年に本社を東京都港区に移転し、1989年に商号を(株)テクノ菱和に変更した。業務内容は空調設備に絡むものだが、大きく一般ビル設備関連、産業設備関連、設備改善関連の3つに分けられる。また、設立当時より三菱重工業(株)の冷熱機器販売代理店として、冷熱機器の販売も手掛けている。
 営業網は東京、名古屋、大阪の3母店を核にして、東北から九州などに支店を持つ。顧客企業の近いところにいる必要から、営業所は全国で展開している。なお、名古屋支店は熱田区の白鳥庭園から南に国道1号線を渡ったところにあり、静岡支店のほか富山営業所など7つの営業所を管轄している。

2. 空気調和設備の概要と「ものづくり」を支える設備
 空気調和設備(以降 空調)の歴史は古く、寒さを凌ぐために火を焚くなど、暖房に関しては原始時代から行われていた。現在、空調は冷房や暖房など温度や湿度の調整だけでなく、粉塵や細菌、有害ガスなどを排除し、空気の質を守るという面でも重要な設備である。
 空調は一般のビルと工場では目的が異なる。一般のビルでは対象が人であり、主要な目的は保健衛生である。一方、工場では対象が製品・人・周辺環境であり、目的は品質向上・歩留り向上・労働安全・環境保全である。
 我が国では、ものづくりに関わる産業用の空調設備は紡績工場の温湿度調整が始まりであった。当時、工場内を適切な温湿度に保つことができず、糸切れが多発していた。また機械からは発熱や発塵があり、生産環境も良くなかった。そうした中、1904年に水を噴霧、気化させることで空気の冷却を行う蒸発冷却型のエアワッシャをW.H.キャリアが発明し、それを組み込んだ空調機が1907年に導入された。その後、冷房設備は蒸発冷却(水を循環噴霧)から井水冷房(低温の地下水を噴霧)、完全冷房(冷凍機を用いた冷房)という変遷をたどった。
 これらの後、製品品質のさらなる向上や歩留り向上のため、産業用空調技術に対する要求が高度化し、温湿度をより高精度に制御する恒温恒湿室や汚染物質(微粒子や微生物)を排除したクリーンルームが開発されていった。特に後者のクリーンルームに関わる汚染制御技術は、半導体製造を始めとした最先端のものづくりに欠かせない技術となった。この汚染制御技術、つまり作業環境の管理が重要であると認識されたのは、19世紀後半の医学分野であり、消毒による感染症への対処が始まりとされる。一方工業分野では、第二次世界大戦時に作業環境中のホコリ管理が重要と考えられ、HEPAフィルターと呼ばれる空気中に含まれる微細なホコリを取り除く高性能なフィルターが開発されると、汚染制御技術は急激に発達した。
 現在、「ものづくり」を支える空調技術は、(1)電子デバイス(半導体、液晶、CCDなど)、(2)精密機械(工作機械、カメラ、測定機器、電子部品、半導体製造装置など)、(3)医薬品(固形剤、注射剤、粉末剤など)、(4)食品(魚肉練り製品冷却・包装工程、包装めん冷却・乾燥・包装工程、スライスハム包装工程など)等、幅広い分野で活かされている。

3. 空気調和設備のこれからとテクノ菱和のチャレンジ
 現在注目を浴びている技術の一つとして、創エネや蓄エネといったエネルギー関連技術が挙げられる。また、作業環境と周辺環境を個別に制御するタスクアンドアンビエント技術や必要な箇所のみを清浄化する局所清浄化技術など、必要なときに必要な空間のみを制御する環境制御技術もより進化していくものと思われる。
 こうしたなか、テクノ菱和は「冬季の加熱加湿を蒸気レスで行うと同時に冷水を創るシステム」を開発してきたほか、省エネルギー技術や環境対策技術など5つの分野で「ものづくりを支える技術」の研究開発に取り組んでいる。今後も顧客企業の事業活動に貢献していきたい。

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【26年2月度 産業懇談会(木曜G)模様】

テーマ: 『 航空自衛隊 小牧基地 視察会 』

日 時:平成26年2月20日(木) 11時15分〜16時40分
場 所:愛知県小牧市
参加者:31名


 航空自衛隊 第1輸送航空隊司令兼小牧基地司令で空将補の上ノ谷寛(かみのたに ひろし)様からお話を伺った後、空中給油・輸送機(KC-767)研修、救難教育隊研修、輸送機(C-130H)研修、航空機動衛生隊研修の順に見学した。また、当日の昼食は、基地内で提供されている給食を幹部食堂にて体験した。

1. 最近の周辺情勢について
 中国公船が毎日のように尖閣周辺の領海に侵入してくる。領海に入っても、真っ直ぐ入り、真っ直ぐ出ていけば、「無害通航権」が認められている。しかし、中国公船は領海内をクルクルと動き回る。昨年には、日本の領海に63回も侵入した。日本は国土面積が世界の国々の中で62番目に過ぎない島国だが、領海と排他的経済水域を加えると6番目に広い。そうした海域を海上保安庁が警備している。しかし、同庁には高波に耐えられる1,000トン級の巡視艇がわずか50隻ほどしかなく、とても足りないと言える。名古屋にある第四保安区海上保安部からも尖閣周辺に巡視船が出航している。一度、海に出ると、2週間はかかり、大変であると思う。
 さて、空についても海と同様の状態であり、中国機による領空侵犯が多い。国際法上、日本の領土に近づく場合、日本国の許可が必要である。許可なく接近してきた場合、航空自衛隊の戦闘機がスクランブル発進をしている。  
 ところが、地球は丸いので、地上のレーダーでは低空を飛んでいる飛行機に気付かないことがある。実際、沖縄や宮古島に設置されたレーダーでは、尖閣周辺の低空を監視できない。したがって、現在は四六時中、B767を改造した早期警戒管制機(AWACS)を飛ばして監視している。
 一方、北朝鮮は核兵器、ミサイル、特殊部隊の3つを持っており、脅威である。北朝鮮は2006年に最初の核実験を行った。その後、2009年5月に2度目、2012年2月に3度目の実験を行っており、核兵器の開発が明らかに進んでいる。
 北朝鮮が国際的に本当に孤立しているかというと、実際はそうでもない。世界のなかで163ヵ国は北朝鮮と何らかの外交関係がある。中国はもちろん、イギリス、カナダなども北朝鮮に大使館を置いている。北朝鮮と国交がない国は、韓国、日本、アメリカ、フランス、サウジアラビア、ブータンなど30ヵ国ほどである。
 中国や北朝鮮の動きを考えると、本来なら日米韓同盟の構図になっても良い。しかし、日本と韓国には竹島問題が生じており、混迷している。

2. 小牧基地について
 航空自衛隊小牧基地は、濃尾平野の北東部、名古屋市の中心から北方約15kmに位置する。 総面積は約120万m2であり、ナゴヤドームの約23倍の広さである。基地は小牧市、春日井市及び豊山町の2市1町にまたがり、名古屋市にも接する。滑走路は愛知県が管轄する県営名古屋空港の長さ2,740m×幅45mのものを使用している。海外への輸送任務を有する第1輸送航空隊をはじめ9個所属部隊を有しており、現在、約2,000名の隊員が所属している。
 この小牧基地は、昭和19年2月に旧陸軍の小牧飛行場として発足した。昭和22年5月に在日米軍が使用を開始したが、昭和33年9月に米軍が管理権を返還した。昭和34年5月、航空自衛隊小牧基地が開庁され、今年で55周年を迎えるところである。これまでもそうだが、小牧基地は地域住民や国民の理解と協力のもとで成り立っている。
 小牧基地のこれからに関して3つのことを考えている。第一に、国民の安心・安全の礎、つまり「最後の砦」になるべきものである。第二に、航空輸送、救難、教育等の拠点であり、加えて、広域防災の拠点である。第三に、日本人の伝統や規範を伝承するとともに、状況変化に対応する。我々は、矜持をもって更なる精神強化と任務完遂をして、地域との共存・共栄を図っていく。

3. 自衛隊員の再就職について
 自衛隊の隊員は、防衛大臣をトップとする防衛省の職員である。その中には、定員内の立場として、事務次官、書記官等、事務官等とともに、自衛官がある。いわゆる制服組と言われる自衛官の法令上の人数は247,172人となっている。定員外の立場としては、自衛官候補生、予備自衛官、即応予備自衛官、予備自衛官補、防衛大学校学生、防衛医科大学校学生、陸上自衛隊高等工科学校生徒、非常勤職員がある。
 自衛官の定年年齢は、空将と空将補は60歳だが、1等空佐は56歳、2等空佐と3等空佐は55歳など階級によって異なり、一般的な企業よりも若年で定年を迎える。空士の場合は、最初に3年、その後は2年ずつ合計4回の任期となり、20歳代で退職する。自衛官は体力面の問題から、若い間しか業務に携われないこともあり、再就職が必要となる。
 退職予定の自衛官をそれぞれ適した職業に再就職させることは、自衛隊の組織の量的、質的な維持のうえで必須である。そのために、援護業務室があり、就職援護、就職援護広報、職業訓練、就職指導を行っている。自衛官の再就職先は、学校、医療機関、航空業界、サービス業、製造業、建築業、保険・金融、地方公共団体など多岐に亘る。自衛官は協調性があり、コミュニケーション能力が高い。是非、再就職の支援に対して、皆さんのご協力をお願いしたい。

昼食の写真
【昼食】
ボリュームたっぷりの昼食。
隊員の方々にはちょうど良い量だそうです。
空中給油・輸送機 KC-767 外部の写真
【空中給油・輸送機 KC-767 外部】
空中給油・輸送機 KC-767 内部の写真
【空中給油・輸送機 KC-767 内部】
 
集合写真
【集合写真】
風は強かったですが、大変良い天気で視察会日和でした。

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【26年3月度 産業懇談会(水曜第2G)模様】

テーマ: 『 女性の活躍推進〜多様な人材が能力を発揮できる会社を目指して〜 』

日 時:平成26年3月5日(水) 12時00分〜14時00分
場 所:名古屋観光ホテル 3階 桂の間
参加者:28名

スピーカー:
山本 光子(やまもと みつこ)
テンプスタッフ・ピープル株式会社
専務取締役

山本 光子氏

1. 日比野社長との出会い
 以前、産業懇談会で当社の日比野社長が派遣法について話をしたことがある。私は、人材サービスという仕事を通して、女性の就業支援を行うことが多いこともあり、「女性の活躍推進」について考えていることを話したい。
 私は静岡市の生まれである。高校卒業後、名古屋の短大に進学して以来、ずっと名古屋に住んでいる。卒業後、医療機関の受付として就職したが、知人より「日比野さんという方が、業務経験もあり、有能であるにも関わらず、家事や育児等で時間的制約があるために、活躍の場が限られている女性達に仕事を提供する事業を行う会社をつくるために手伝ってくれる人を探している」と聞いた。
 当時の社会では、女性の就業機会や職種は限られており、新卒入社を除くと、やりがいや責任を伴う仕事を探すことが難しかった。日比野社長の話を聞き、「企業と働きたい女性の間を取り持つ仕事」にとても惹かれ、早速働くことにした。仕事の内容は営業で、企業の方に「人材派遣」というものを知ってもらうためにひたすら回り歩いた。

2. 会社のスタートから今日まで
 当社は日比野社長と営業の私、それともう一人、経理などの管理を任された元常務の佐々木邦子氏の3人でスタートした。昭和58年3月に日本ウーマンスタッフ名古屋(株)として創業し、昭和60年3月にウーマンスタッフ(株)に商号変更、その後、雇用機会均等法を受けて、平成10年9月、ピープルスタッフ(株)に商号を変更し、平成14年9月、ジャスダック上場を果たした。
 平成20年10月、ピープルスタッフ(株)は同業のテンプスタッフ(株)とともに共同持株会社テンプホールディングス(株)を設立し、東証1部に上場、平成21年4月、テンプスタッフ(株)の東海営業部を吸収分割継承し、テンプスタッフ・ピープル(株)へと商号変更、現在に至る。今は、愛知、岐阜、三重、静岡の東海4県をエリアに、一般労働者派遣、有料職業紹介、教育・研修、アウトソーシングなどの総合人材サービスをワンストップで提供している。

3. 女性も働く時代
 当社では、女性社員が7割強を占めており、ありがたいことに、結婚・出産後も働き続けてくれる人が多い。私は常々、結婚報告をしに来た女性社員には「結婚や出産を理由に仕事を辞めないで頑張り、本当に限界を迎えた時に辞めれば良いのではないか」「できる限り、自分のやりたいことをしなさい」と言っている。男性は引いてしまうかもしれないが、これからの女性は「右手に仕事、左手に夫(男)、背中に子供、懐に札束」を目指して欲しい。それを実現できる世の中になりつつあると考える。
 ひと昔前と違い、今はいろいろと便利になり、家事などに割く時間が少なくなっていることは間違いないにも関わらず、女性が仕事を続けるうえで、結婚、出産、介護などのライフイベントが未だ大きな障壁であり、女性の就労を妨げている。内閣府の調査で、そのような障壁を乗り越えて就業を継続している人に就業継続の理由について尋ねたものがあり、最も多くを占めたのは「仕事と家庭を両立して働き続けられる制度や『雰囲気』があった」「同じような状況で仕事を続けている人が『周りにいた』」とあった。当社の社員に聞いても、身近にいる同僚が、結婚・出産を経て働き続けているのを実際にみて、あの人ができるんだったら私にもできるという理由が多かった。
 これからは、介護も大きな問題になるが、介護の場合、働き盛りの男性社員に大きく負担がかかることも多い。男性の場合は、まじめに精勤してきたし、部下にも厳しくしてきたので、自分が家庭の事情で休んだり時短で働くことでみんなに迷惑をかけ続けられないと考え、相談せず辞めてしまう人が多いという。
 つまり、育介護支援などの仕組みを充実させることも重要だが、社員一人ひとりの「意識」が変わらないと、その実効性は担保されない。仕事と家庭の分業という既成概念から脱皮し、一人ひとりの仕事と家庭のバランス(それは男性でも女性でも)を柔軟に設計できる社会・企業が実現すべきであり、「女性」だけでなく、「男性」も含めた仕組み・意識の改革を進める必要がある。

4. 女性の活躍推進を
 強い経済、強い日本に向けたアベノミクスの日本再興戦略において、人材こそがわが国最大の資源とされ、女性や若者の活用が求められている。また、多様な価値観を有する人材を確保し、その能力を最大限発揮してもらうことで、イノベーション創出・価値創造していく「ダイバーシティ経営」が叫ばれている。
 女性の活躍推進を端緒とするダイバーシティ経営がもたらすメリットとして、多様な市場ニーズへの対応、リスク管理能力(ガバナンス)や変化に対する適応能力の向上、SRI(社会的責任投資)を通じた長期・安定的な資金調達などが期待されている。
 加えて、(1)優秀な従業員の採用が容易になる、(2)優秀な従業員が辞めなくなる、(3)従業員の勤労意欲が向上する、(4)従業員の空きを組織・業務体制の見直しの好機にする等のメリットもあり、支え合いにより、職場全体をレベルアップさせる好機と捉えて、組織・業務体制の見直しを並行して実施し、両立支援を企業業績向上に結び付けていくことが大切だと考えている。


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【26年3月度 産業懇談会(木曜G)模様】

テーマ: 『 三菱電機株式会社 稲沢製作所 視察会 』

日 時:平成26年3月6日(木) 12時00分〜16時50分
場 所:愛知県稲沢市
参加者:16名


1. 歓迎挨拶:三菱電機株式会社 稲沢製作所 部克則所長より
 三菱電機の稲沢製作所は1964年に名古屋市東区にある名古屋製作所から分離独立し、エレベーター、エスカレーターの専用工場として設立されており、今年秋に50周年を迎える。これまで累計約43万台のエレベーターを生産し、世界92ヵ国に出荷している。91番目はガーナ、92番目はアンゴラであり、アフリカに広がっている。
 現在、世界最高速のエレベーターに取り組んでいる。今年12月頃に完成予定の上海タワーに分速1,080m(時速64.8km)のエレベーターを造っている。ちなみに、現在の世界一は台北101の東芝製であり、分速1,010m(時速60.6km)である。
 エレベーターは速度の競争もあるが、それよりも世の中で多くのエレベーターが安全、安心、快適に作動することを願って仕事をしている。本日は、そうしたところをショールームと試験棟で見学いただきたい。

2. 稲沢製作所の概要
 稲沢製作所の敷地面積184,000m2、ナゴヤドームで4個分くらいである。建物面積は152,000m2である。当社社員で約1,200名、関係会社等も含めると約3,500名が勤務している。敷地内にはショールームや高さ173.0mのエレベーター試験塔「SOLAE(ソラエ)」がある。試験塔は42階建てに相当するが、地上から39階までの高速エレベーターは、極限まで振動が抑えられ、立てた10円玉が倒れない性能である。こうしたエレベーターは横浜ランドマークタワーなどに設置されている。
 エレベーターとエスカレーターを総称して昇降機と呼ぶ。稲沢製作所では昇降機とビル管理機能を向上させるビルマネジメントシステムを取り扱っている。

3. 事業環境
 国内の昇降機の新設需要は景気回復や消費税増税前の駆け込み需要等により、住宅や大型商業施設の建設需要が増えている。2013年度の国内新設需要は2007年度以来の2万台超が見込まれる。また、エレベーターの商品寿命は約20〜25年である。日本経済のバブル期の建築ラッシュで新設された昇降機が更新時期を迎えている。設置後25年超の当社の昇降機は6万台以上ある。省エネや安全・安心に対する感度が高まっており、リニューアル需要にも力を入れている。
 一方、全世界の新設需要は約80万台であり、当社進出先の需要は約75万台と見込まれている。当社は、日本、上海、バンコクの3拠点を核にグローバル事業を推進している。地域密着型オペレーション、地域製造拠点と連携したサプライチェーン構築、製造分業体制強化を図り、グローバル最適事業体制を構築している。  

4. 新製品・新技術紹介
 省エネ技術によって、昇降機のエコプロダクツ化を推進している。同時に、エコファクトリー化や梱包・輸送、据付・保守、リニューアルなど製品のライフサイクルすべてにわたり環境に配慮した取組みを展開している。例えば、エレベーターの省エネ技術としては、省エネ群管理システム(消費電力を削減できるエレベーターを割り当てることにより、消費電力を最大10%削減)、待機電力制御(利用が少ない時は運行台数を減らして待機させ、消費電力を大幅カット)、エレベーター自動待機モード(かご呼び・乗場呼びが3分間ない場合、かご内の照明と換気の電源を自動オフ。乗場のインジケーターも輝度を落として消費電力をカット)などがある。
 効率化、利便性向上の技術では、DOAS(行き先階予報システム)、入退室兼来客管理システム、ハンズフリー入退室管理システムなどがある。稲沢製作所のショールームでは、こうした技術を体験できる。  

集合写真

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【名古屋いちばん物語】 No.57


テーマ: 『 尾張名古屋事始(6) 』

ONKネットワーク
加 藤   敏

 義直の勤王思想は吉通により再構築されながら、藩訓として歴代藩主に伝授されていくが、それは徳川家の支配を確立するためのものであり、決して反幕に繋がるようなものではなかった。また、その影響は尾張藩内にとどまらず、水戸藩にまで及んでいった。
 義直は『神祇宝典』で全国主要神社の祭神等の考証を行う一方で修史事業にも心血を注いだ。そして『日本書紀』などを校正して『類聚日本紀』を編纂している。目指すところは、中国の『史記』に倣い紀伝体による日本の"史記"を編纂することであった。当時の史書は編年体で書かれており、紀伝体で書くことは人物評価が伴うために難しいとされていた。自らの手でそれを成し遂げることはできなかったが、その宿願は、息子の二代光友ではなく、甥で28歳年下の水戸藩二代光圀によって実現に向かうことになる。このあたりは、冲方丁氏が傑作『光圀伝』の中で詳しく描いている。知られざる義直の姿を見ることができるので、義直ファンにはお奨めである。
 『光圀伝』は、兄を差し置き弟の自分が藩主になり苦悩する光圀の姿を「義」をテーマに描いているが、修史事業にも大きなページが割かれている。学問に熱心な光圀は義直から勤王思想など多くを学んでいる。研鑚を重ねる中で、義直から膨大な書物が所蔵された江戸尾張藩邸の書庫の鍵を預かるまでの信頼を勝ち得ていった。明暦3年(1657)の振袖火事で書庫が消失する不運にも見舞われたが、光圀は助さんと格さんのモデルといわれる佐々宗淳と安積澹泊など有為な人材を登用し、その後半生を江戸の彰考館を舞台に修史事業に打ち込んだ。そして元禄10年(1697)には、紀伝体による『大日本史』の「本紀」の部分が完成し、ここに義直の大願は日の目を見ることになったのである。
 光圀以降も『大日本史』の編纂は長く続けられ、ようやく全編が完成するのは明治39年(1906)になってからである。この間、光圀やその弟子たちの思想は水戸学として発展を続け、幕末維新期には日本中に広がりを見せるようになる。光圀の時代は古典研究中心の学問レベルにあった水戸学であるが、幕末維新期になると―後期水戸学といわれる―、異国船の到来などの影響もあり政治性を強く打ち出すようになった。後期水戸学は会沢正志斎や藤田東湖が中心的となり、いわゆる国体や尊王攘夷などの新しい思想を展開していった。これらは光圀の思想そのものではないが、その流れを汲んでいることは間違いない。それは対外的危機の中で国内改革を行って幕藩体制を維持していくことを目的としており、現実的な保守主義に根差したものであった。またそこにはナショナリズムの萌芽がみられたことから、尊王攘夷運動の思想的バックボーンとなり、吉田松陰を初め多くの志士たちに強烈なインパクトを与えていった。
 さて尾張藩十四代の慶勝である。義直の血統が途絶え半世紀近くに亘り将軍家の押し付け養子藩主が続いた後に、美濃高須藩から待ち望んで迎えられた。その血統は水戸藩に繋がっている。祖父義和(水戸藩七代治紀の弟)は美濃高須藩に養子として入り、父義建は治紀の娘規姫(九代斉昭の妹)と結婚している。若き日を江戸高須藩邸で過ごした慶勝は、強烈な尊王攘夷論者である24歳年上の伯父斉昭から、治政や西洋技術などを幅広く学んでいる。井伊直弼が安政5年(1858)に日米修好通商条約を無勅許で締結した時に、斉昭と共に反発したのはその影響によるものである。こうした生い立ちからみて、慶勝の行動の原動力が後期水戸学に強く根差したものであることは間違いないであろう。まさに水戸の血統と思想を一手に受け継いで登場したのが慶勝であるといってよい。もちろん慶勝が歴代藩主に伝授されてきた義直の藩訓を熟知していたことは言うまでもない。ちなみに、尾張藩でも吉見幸和などのいわゆる尾張学が展開されていたが、押し付け養子藩主の時代が続いたことから、幕末維新期の尊王攘夷運動をリードするまでには至らなかった。
 慶勝は激動の時代に生きている。長らく藩主不在のため停滞していた藩政の改革を進める一方で、朝廷から厚い信任を得ながら、御三家として公武合体による徳川家の支配の存続を目指した。しかし、慶喜の追討そして恭順により将軍家が当事者能力を失うという厳しい局面を迎え、鳥羽伏見の戦いが勃発し藩内が佐幕派と勤王派の抗争で混迷した時には、国政と藩政の板挟みの中で朝廷側につき、苦渋の政治決断により佐幕派の藩臣を斬首してその収束を図っている(青松葉事件)。尾張藩の奉行所の記録である『三世紀事略』には、「姦徒誅鋤」と「勤王誘引」の朝命があったと記されている。ただその背景には、尾張藩が行った宝暦治水と長州征伐に対する復讐のために薩摩と長州両藩が画策したとする説があるなど、本当のことはよく分かっていないようである。ましてや写真家の殿様としても有名で几帳面な慶勝が、この時期(文久元年〜明治5年)の日記を自らの手で全て処分してしまっていることもあり、真相は今なお闇の中に入ったままである。
 確かに慶勝の行動には分かりにくいところがあるが、緊迫した政治情勢の中で、徳川家の存続という大義のためには、藩内の守旧的佐幕派といえども小異として排除せざるを得ないと判断した上で行動したのではないかと考えたい。この事件を契機として、御三家の尾張藩が勤王の意思を明確にしたことにより、東海道や中山道沿いの各藩は藩論を勤王に統一していった。そして討幕に伴う国内での大きな争乱もなく明治維新を迎えることになるが、この点では、慶勝も高く評価されていることだけは付け加えておきたい。
 慶勝は、義直の勤王思想の2つの大きな流れ―尾張藩の藩訓と後期水戸学の尊王攘夷思想が合流した幕末維新の動乱期に、期待を背負って歴史の舞台に登場した。そして御三家筆頭として公武合体の政治理念に基づき徳川家による支配の存続を目指して行動した。しかし不幸な事件があったとはいえ、それを実現することは叶わず、皮肉にもその幕引きに立ち会うことになってしまった。後期水戸学は慶応元年(1865)の条約勅許以降は当然のごとく衰退し、攘夷思想による藩内抗争もあって本家の水戸藩は壊滅的な打撃を受けていった。尾張藩だけが明治新政府の一翼を担うことになったとはいえ、残念ながら幕末維新期の政治の中で御三家がその力を十分に発揮することはなかったのである。
 ただその後日談になるが、後期水戸学の思想は明治以降も受け継がれ、平田篤胤などの国学思想と共に立憲君主制国家の天皇制イデオロギーに影響を与えていくことになる。少し大袈裟な言い方をすれば、義直や光圀の勤王思想が近代にまでその影を落としていたということになるのだろうか。昭和8年に名古屋城二の丸庭園にある2つの石碑―「依王命被催事」と「尾張勤王青松葉事件遺跡」が、青松葉事件勤王派の有縁者であり史家の青年将校によって建立されているが、その時代のいわゆる超国家主義的な思想が何らかの影響を与えていたのかもしれない。また藩訓が反幕に繋がるものであるとするような誤解が生じたのも、この時期からなのかもしれない。その功罪はともかくとして、こうした流れも第二次大戦の敗戦により一掃されてしまうことになるが、思想の持つ時代を超えた影響力の大きさにはただ感心するばかりである。
 本丸御殿がグランドオープンすると、尾張藩の歴史が様々に語られるであろう。そして義直が主役になることは間違いない。その中で二の丸庭園にある2つの石碑が注目されたりすることがあるかもしれない。それらが無言で語るのは徳川家の支配の絶対性を目指した藩主たちの行動の軌跡である。義直の勤王思想や現代との関わりをみながら、その軌跡を少しばかり振り返ってみたが、尾張藩の歴史の森はまだまだ奥深いようである。

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【名古屋いちばん物語】 No.58


テーマ: 『 「住吉の語り部となりたい」 シリーズ第36回 』

料亭つたも主人
深田正雄

本町通り:鉄砲町1-2丁目

 名古屋甚句歌詞には「アーエ花の名古屋の 碁盤割りはエー アー都に負けない京町や 竜宮浄土の魚の棚 七珍万宝詰め込みし 大黒殿の袋町 広小路から見渡せば なかなか届かぬ鉄砲町 次第しだいに末広の 家並みは続く門前町・・・」と唄われている名古屋城と熱田神宮を結ぶ幹線道路本町通りの歴史と昭和30年代の思い出をお伝えしたく思います。
 江戸時代、広小路と本町の交差点西南の柳薬師(新福寺の通称)が賑わいの中心、明治に入り新福寺が移転し境内地の一部が柳の木とともに、長円寺の境内地とかわる。そして、広小路には日露戦争凱旋門、昭和に入り映画館が並ぶ広ブラ、戦後は北西の大和ビルをGHQ司令部が占拠、屋台は常に繁昌、名古屋の起点として発展してきました。
 道路元標は、国・県道の起終点を示すもので、大正8年に制定された旧道路法により、各市町村に一個を置くこととされた。名古屋市では、大正9年の愛知県告示により「中区鉄砲町1丁目18番地の1地先」が道路元標の設置場所とされ、この付近に設けられた。つまり、設置当時はこの付近が名古屋の中心であったことを物語っている。
 道路元標方式は昭和27年の新道路法の制定で廃止となったため、現在設置されているものは、往時の道路元標を後世に残すために、本町通の整備にあわせ往時のものを復元したものである。「名古屋市道路元標」と書いてあり、名古屋市の道路の起源と言っても良いものである。
 本町通りには、正雄君の子供のころから不思議なことに電柱が一本もなく、昭和初期に電線の地中化工事が実施されたようです。
 祖父良矩いわく「本町の旦那衆は5月16日の若宮八幡社祭礼時、電線が山車・渡行の邪魔になる!電気会社に地中化を要請し、実現させた。」との事、昭和4年、昭和天皇が名古屋に行幸されたときが契機となり、今でも、御幸本町通と呼ばれています。
 しかし、名城と熱田を結ぶ電車を走らせようと計画したら、「うるさい邪魔だ!」との意見、やむなく本町から筋を変更し大津通りを拡幅して熱田神宮へ市電が敷設されたようです。

 本町も鉄砲町も清須からの地名で、「清須で鉄砲を製造する職人が住んでいた」街であったようです。北見地図昭和35年版から老舗の並ぶ鉄砲町には多くの現存企業が頑張っています。一町目・柳薬師南にはメリヤス八木文、笹屋さん岡谷鋼機、音楽リサイタルなど親近感のある会館を運営される長円寺、東側には明治33年創業の牛肉・スギモト本店が歴史を誇っています。角のメガネ「つの市」商店さんはビルに建替え、牧野おばあちゃんが上階のマンション住まいでしたが、最近お会いしなくなりました。栄地下街にも昔からメガネ「つの市」看板で、コーヒー店がありますのは、転貸されているのでしょうか??今年に入り繊維卸業を牽引する高橋家の八木文さんのシャッターが閉まっているのがチョット気がかりです。1669年初代岡谷總助宗治が、鉄砲町(現:本社所在地)にて金物商「笹屋」を創業以来、親戚筋の松坂屋伊藤家と共に代々名古屋財界のリーダーであり、岡谷篤一現社長は名商会頭、中法人会会長、若宮八幡社総代会長・・・など多くの要職を務め名古屋のリーダーとして大活躍されています。
 2丁目西には、洒落た家具「飛騨木工」と移転された横山商店(リオ横山さん)跡地は現在宝第一ビル、南の野村タオル、中村合資と老舗が続き、現在も看板建物はありますが、営業の拠点は他に移っているようです。名古屋財界の祖「紅葉屋」さんは、番頭の故・浅野甚七さんが屋号を引き継ぎ、戦後、ゴム靴・月星化成(株)の代理店として、現在は、栄一社長が靴問屋として海外輸入などで活躍されています。終戦直後アメリカ村建設時の地域の尽力者でもある甚七さんのお話をご紹介しましょう。
 「友人が通訳をしており、司令部では当初、進駐軍のプランでは東は本町と西は伏見通りとなっているとの情報を入手。名古屋の文化歴史のメイン本町御幸通りを占領されては、沽券にかかわると案じ、早速、仲間たちと焼け跡の本町に小屋建て住みつき境界を一本西に移動させた。」との武勇伝を何度も聞かされたことがあります。
 南角の創業明治19年、通称貴金属の「蝶屋」(株)池田商店さんは昭和32年に名古屋城再建時の名古屋城の金シャチの地金を納入した実績も話題で、浮き沈みの激しい宝石業界で長年活躍されています。
 また、2丁目東角には創業文久2年(1862年)組紐類の販売からスタートした「青山リボン」の先代青山義郎社長は英国流ハンターとして進駐軍将校を狩猟に案内されていました。 現隆治社長は鉄砲町内会会長として街づくりや祭礼にご尽力されています。
 老舗・呉服(株)扇屋は明治からの代表的な繊維業界リーダーです。若宮八幡社南正門「大鳥居」は先々代平松愛之助氏が紀元2600年(昭和15年)を記念して寄贈、唯一、戦災を免れた鉄筋本社ビルは現存して本町表通りのランドマークと言えます。先代の平松一道社長は東大卒、内務省官僚から転身、大のゴルフ好きで駐車場奥になんとバンカー練習場が最近までありました。私も名古屋に戻り、先代一道氏からナオリ繊維組合、和合ゴルフ、若宮祭礼など幅広い指導をいただき感謝しております。
 南には長い玄関庭が特徴の料亭「つたや」、リオ横山さんのビルなど懐かしい思い出いっぱいの歴史を誇る旦那衆の街といえます。
 次回は、白足袋の大旦那の町といわれた鉄砲町3丁目、末広町を語っていきましょう。

写真1:名古屋の中心、道路元標(説明板に併設)

写真2:旧道路元標説明(広小路本町交差点、南東角)

写真3:扇屋本社ビル(建物は戦前より、区画整理拡幅で表側削減)

地図:北見昌朗氏作成 鉄砲町1-2丁目地図 昭和35年当時

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【4月度産業懇談会のご案内】
水曜第1グループは開催曜日が火曜日に変更になっています。
木曜グループ以外は、名古屋観光ホテルでの開催です。
グループ名 世話人 開催日時 テーマ 場所
火曜グループ

岡部 聰
深田正雄

4月8日(火)
12:00〜14:00

東海東京証券(株) 取締役副会長
 岡部 聰氏のご紹介
東海東京証券(株)
名古屋戦略部 鈴木俊一氏
「ソチ五輪観戦記」
18階
伊吹の間
水曜第1グループ

落合 肇
飯田芳宏

4月15日(火)
12:00〜14:00
イイダ産業(株) 取締役会長
 飯田芳宏氏のご紹介
名古屋大学
国際教育交流本部 国際教育交流センター
キャリア支援部門 特任講師 今井千晴氏
「留学生就職支援の現場から
  〜留学・国内外での就業経験を通して(仮)」
18階
伊吹の間
水曜第2グループ

片桐清志
見祐次

4月9日(水)
12:00〜14:00
(株)ナゴヤキャッスル
取締役社長 越川 健一郎氏
「新聞記者が“異次元”の
        宿屋の主人になった時」
18階
伊吹の間
木曜グループ

河村嘉男
倉藤金助

4月3日(木)
11:45〜13:45

オリエンタルビル(株)
取締役社長 平松 潤一郎氏
「フェラーリの魅力とイタリアン」
※誠に恐れ入りますが、2月25日(火)をもちまして、定員超過のため募集を締切させていただきました。
※ガレージ見学後、昼食会を行います。
※ご出席の方には、詳細案内を発送させていただきました。
<現地集合>
アウトガレリア“ルーチェ”
名古屋市名東区極楽1丁目5番地

<ご参考>
平成26年4月3日(木)木曜グループ:フェラーリの魅力とイタリアン
昼食場所 リストランテ・エスト(名古屋市名東区極楽1丁目7番地)

11:45



11:45〜12:30





12:30〜13:45

13:45〜
アウトガレリア“ルーチェ”に現地集合
※公共交通機関をご利用の方は、別紙の交通案内をご参考にしてください。(地下鉄東山線「本郷」駅の東改札口付近で事務局員が待機致します)
ガレージを見学
■平松 潤一郎氏より概要説明
・フェラーリ/展示見学
・ベスパ/展示見学
「− 映画「ローマの休日」を彩った
        スクーター “Vespa” −」
リストランテ・エストにて昼食会
(※イタリアンランチをご用意させていただきます)
アウトガレリア“ルーチェ”にて現地解散
(※地下鉄東山線「本郷」駅よりお帰りになられる場合、タクシーを手配致しますので、ご指示ください)

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【5月度産業懇談会のご案内】
名古屋観光ホテルでの開催です。
グループ名 世話人 開催日時 テーマ 場所
火曜グループ

岡部 聰
深田正雄

5月13日(火)
12:00〜14:00

新日鉄住金エンジニアリング(株)
理事 中部支社長 中村裕司氏
「海外のインフラ事業の受注に
     あたっての実践的な教訓
    −私の成功・失敗例を参考に−」
3階
桂の間
水曜第1グループ

落合 肇
飯田芳宏

5月21日(水)
12:00〜14:00
(学)愛知真和学園大成中学・高校
理事長・校長 足立 誠氏
「私学経営の妙味」−直近の四半世紀の変容−
2階
曙(西)の間
水曜第2グループ

片桐清志
見祐次

5月28日(水)
12:00〜14:00
三菱地所(株)
執行役員 名古屋支店長 仲條彰規氏
「(仮)大名古屋ビルヂング開発と名駅前街づくり」
2階
曙(西)の間
木曜グループ

河村嘉男
倉藤金助

5月8日(木)
12:00〜14:00
丸菱工業(株) 取締役会長 河村嘉男氏のご紹介
航空自衛隊小牧基地 第1輸送航空隊
司令部援護業務室長 小島 広氏
「飛行のはなし(パイロットの世界)」
3階
桂の間

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【お知らせ】

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【コラム】

コラム1 【保健師からの健康だより】 No.120
花ちゃんからの健康だより

株式会社 スズケン
保健師 鳥巣 妃佳里

『 快適な職場づくりのために 』

 日に日に暖かくなり、もうすぐ新年度を迎えます。皆さまの会社でも新入社員を迎え入れる準備を進めていることと思います。4月に入って新入社員を迎え、まず教えるのは「挨拶」ではないでしょうか。会社にとっては社員一人一人が会社の顔になります。自社の社員が社内でも社外でも、元気よく笑顔で挨拶してくれることは、会社にとっては何よりの財産ですね。それと同時に、管理監督者にとっては、部下の健康やメンタルヘルスの状態を知る手掛かりにもなります。

 皆さんは毎朝、挨拶をするときに同僚や部下など、ひとりひとりの顔をみていますか?毎日見ていると、普段のその人の様子(声の大きさや抑揚、表情、姿勢、挨拶する時の行動、など)がわかるようになってきます。そして普段の様子がわかるようになると、その人の変化にも気づくことができるようになります。「いつもこちらの眼を見て挨拶するのに今日は顔を伏せているな」「いつも元気に大きな声で挨拶するのに今日は声が小さいな」などです。
 ラインケア(管理監督者による心の健康づくりのためのケア)の基本は普段のその人の様子を知り、その変化に気づくことです。けれども職位が上がると部下の数も増えますし、自分の部署を不在にする時間も多くなってきますから、ずっと様子を見ていることは現実的には難しくなります。そんな中でもちょっとした変化を見逃さずに早期発見、早期対応につなげていくには、少し意識して朝の挨拶の時間を活用するのがとても有効な方法です。変化に気づけば、他の人に状況を確認することもできますし、こちらから声をかけて話を聞くこともできます。何より大切な社員が病気や休業に至る前に対応することができるようになります。

 毎年思うことですが、新入社員の笑顔は期待にあふれていてキラキラして見えます。社内で元気に活躍している人も同じです。ですからその笑顔が失われないよう、そして今後も大きく育っていってくれるように、まずは皆さんから笑顔の挨拶をプレゼントしてみませんか。挨拶してもらえることは、自分の存在を認めてもらえている、ここに自分の居場所がある、という実感をもたらします。そういう会社が、皆さんがいきいきと働き、活躍できる快適な職場となるのではないでしょうか。

笑顔の挨拶をプレゼントし、相手を知ることで
快適職場づくりを目指しましょう!

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コラム2 【「ほん」のひとこと】 No.65
コラム【理念経営物語】

株式会社 正文館書店 取締役会長
谷口正明

その日本語、ヨロシイですか?
井上孝夫著・新潮社刊

 書名からは「日本語の間違った使い方を正す本」を想像しますが、この本は校閲者から見た日本語の本で、あまり類書がありません。著者は新潮社の校閲部部長です。「校閲者は、大学教授や、辞書の編集委員のような『日本語の研究者』ではありません。しかし、来る日も来る日も、日本語の文章を前に、ああだろうかこうだろうかと、絶えず悩み、思いを巡らせている『一般読者の先遣隊』であり、『言葉に対して素人であることのプロ』で」あると言います。
 取り扱うテーマは、調べ方・ルビ(ふりがな)・漢字・仮名遣い・翻訳・死語・文法的には間違っていないが相応しい表現かなど、校閲者が毎日格闘している問題ばかりです。少し例を挙げてみると・・・、

  • ルビにも、肩付き・中付き・群ルビの3つの方法がある
  • 常用漢字という気まぐれなルールに振り回される
  • 歌謡曲「シクラメンのかほり」は、「かをり」が正しい
  • 外国語をカタカナでどう表記するか
       ダスタイェーフスキー(表音主義)
       ドストイェヴスキィ(文字転写主義)
       ドストエフスキー(折衷主義)
  • 「悩殺」は死んでいないか
  • 「手練れ(てだれ)の職人」と言えるかどうか

著者は漫画も得意で、この本の各章の最初にある漫画もすべて自作。

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コラム3 【苗字随想】 No.142コラム【苗字随想】

片桐清志

一字姓について(8)〜一字姓と木

 春になると自然界は様々な色の花で溢れる。花もいろいろだが、前回の一字姓シリーズの鳥と縁が深い樹木の一字姓に今回は着目してみたい。
 種類は60種以上と多彩だ。古くから生活にも深く関わってきたことや、寿命が長いこと、生命力が強いことが人気の要因だろう。これも「〇姓」の多い順に主なものを列挙してみる。
 筆頭はやはり松(マツ・マッタラ)で「松姓」は実に300種を超える。2番が竹(タケ・チク・タケノ・ツイ・ケケノ)、3番の栗(クリ)、4番の杉(スギ)、5番の梅(ウメ・バイ)が続く。「梅姓」でも100種を超える人気ぶりだ。よく使われる「松竹梅」の順は苗字でも松・竹・梅の順だ。なお杉には椙(スギ・スギフ・ヌキ)、梅には楳(ウメ・ススキ)の字がある。6番以降では桑(クワ)、柳(ヤナギ・リュウ)、柿(カキ)、楠(クス・クスノキ)、柏(カシワ・カヤ)、桐(キリ)、桜(サクラ)は50種以上の「〇姓」を有するメジャーだ。その他ポピュラーな樹木を列挙すると檜(ヒノキ・ヒ・ヒノオ)、樫(カシ)、榎(エノキ)、柚(ユズ・ユウ)、槇(マキ)、椎(シイ)、桂(カツラ)、椋(ムク・クラ・イラ・オグラ)、桃(モモ・トウ)が30種以上、楊(ヤナギ・ヨウ)、橘(タチバナ・キツ)、楢(ナラ・ニウ)、栃(トチ)、梨(サワラギ・ミズキ)、椿(ツバキ)なども25種以上ある。
 木姓でユニークな苗字も紹介しておく。「松姓」では松ケ枝(マツガエ)、松枝(マツエダ)、松根(マツネ)、松実(マツミ・マツザネ)、松葉(マツバ)、松板(マツイタ)、松竹(マツタケ・ショウチク)、松影(マツカゲ)、松陰(マツカゲ)、松虫(マツムシ)、松風(マツカゼ・ショウフウ)、松飾(マツカザリ)、松太夫(マツタユウ)、松姫(マツヒメ)などが見つかった。「杉姓」では杉枝(スギエダ・スギエ)、杉根(スギネ)、杉箸(スギハシ)、杉妻(スギツマ・スギノメ)、杉左近(スギサコン)、杉松(スギマツ)、杉竹(スギタケ)などが見つかった。「桑姓」では桑畑・桑畠(クワバタ・クワハタ)、桑根(クワネ)、桑葉(クワバ)、桑農(クワノ)、桑開(クワビラキ)、桑氏(クワウジ)が、「柳姓」では柳光(リュウコウ)、楊勢(ヤナギセ・ヤナセ)、楊垂(ヤナギタレ)、柳雫(ヤナギシズク)、柳通(ヤナギミチ他)、柳大路(ヤナギオオジ)、柳枝(ヤナギエ)、柳父(ヤナブ・ヤナフ・ヤギュウ)、柳箸(ヤナギバシ)が、「楠姓」では楠亀(クスカメ)、楠名(クスナ)、楠神(クスガミ)、楠枝(クスエダ)、楠根(クスネ)、楠葉(クスバ)が、「桐姓」では桐枝(キリエダ)、桐花(キリハナ)、桐香(キリカ)、桐栄(トウエイ)、桐灰(キリバイ)、桐竹(キリタケ)などが見つかった。なお、「竹姓」についてはNo.86(平成21年7月号)、「栗姓」「柿姓」「梨姓」についてはNo.52(平成18年9月号)を参照されたい。

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【平成26年3月号編集後記】

 今年も3月11日に「全国経済同友会東日本大震災追悼シンポジウム」が仙台市内で開催された。「3.11」被災地の支援継続と風化防止を目的に、毎年3月11日に追悼式典を兼ねて、復興の現状と当面している課題を正面から取り上げて議論している。3回目となる今回も約300名の参加のもと、基調セッションの「被災地の産業復興に向けた課題」を仙台同友会、福島同友会、岩手同友会の代表メンバーをパネリストに迎え、長谷川代表幹事の司会でスタートした。
 その後、追悼式典ではチェリストの新倉瞳(にいくら ひとみ)さんとピアニストの文京華(ぶん きょうか)さんによる鎮魂の演奏会も行われた。新倉さんが手にしたチェロは「ヴァイオリンプロジェクト『千の音色でつなぐ絆』」が提供したチェロだ。このプロジェクトは被災者の「心の復興」を支援しようと、被災地で暮らす人々の過去が刻まれた木を楽器として蘇らせ、世界中の千人の弦楽器奏者によるリレーを行い、思いを繋げる。楽器製作者は世界的に有名なヴァイオリンドクターの中澤宗幸氏で、楽器の心臓部である「魂柱(こんちゅう)」には「奇跡の一本松」の原木が使われている。昨年7月に皇太子殿下がヴィオラ演奏を行ったのを皮切りに、今までに6カ国、230人超のリレーが行われている。因みに中澤宗幸氏には、2003年9月に当産業懇談会の4グループ合同懇親会でご講話いただいたこともあるので、ご記憶にある会員もいるだろう。
 分科会では(1)「福島第一原発の現状と原子力災害の克服に向けた課題」、(2)「産業復興に向けた沿岸被災地の課題」、(3)「東日本大震災の教訓と今後の災害への備え」の3テーマに分かれて、地元の産業界の代表と大学の専門家を交えて熱い討論が行われた。
 夜は地元の味覚をふんだんに取り入れた料理とお酒を囲み、復興を実感しながら交流と親睦を深めた。まだまだ復興の道は半ばだが、多くの苦難に屈することなく、一歩ずつ着実に前進している。「IPPO IPPO NIPON プロジェクト」活動も継続中だ。会員諸兄の引き続くご支援をお願いしたい。

(片桐)