産業懇談会【メールマガジン 産懇宅配便】  第134号 2013.7.31 発行

 メールマガジン■産懇宅配便■

平成25年7月度(第134号) 目次

【25年6月度産業懇談会(水曜第1G)模様】 6月19日(水) 12時00分〜14時00分

【25年7月度産業懇談会(木曜G)模様】 7月4日(木) 12時00分〜14時00分

【25年7月度産業懇談会(火曜G)模様】 7月9日(火) 12時00分〜14時00分

【25年7月度産業懇談会(水曜第2G)模様】 7月10日(水) 12時00分〜14時00分

【名古屋いちばん物語】 No.48
【9月度産業懇談会開催日程】
【お知らせ】
【コラム】
コラム1 【保健師からの健康だより】 No.112
コラム2 【「ほん」のひとこと】 No.57
コラム3 【苗字随想】 No.134

【25年6月度産業懇談会(水曜第1G)】

テーマ『 ボランティアは会社の成長エンジン 』

日  時:平成25年6月19日(水) 12時00分〜14時00分
場  所:名古屋観光ホテル 18階 伊吹の間
参加者:18名

スピーカー:
林 隆春(はやし たかはる)
株式会社アバンセコーポレーション 取締役社長

林 隆春氏

1. 全盲の義父との同居
 私は24歳で結婚したときから、20歳で全盲になった義父と25年間、一緒に暮らした。生まれた時から目が見えない人と20歳を過ぎてから見えなくなった人では喪失感は全く違うが、ハンディキャップの大変さが良く分かった。目の見えない人は茶碗一つを置く場所さえも決めておく必要があり、義父が困らないような気配りが大事であった。また、目の見えない人は話している相手の人との距離がわかるようだ。こちらが横を向いて話をするのと、目を見て話している時では、言葉の距離感や気持ちの入り方が違うことを感じている。
 4人の子供が義父と同居することで、思いやりのある子どもに育ってくれたことは良かった。その半面、私自身は社会のハンティキャップに対する無理解や無関心さも徐々に感じるようになった。

2. ブラジル訪問が転機に
 私の仕事人生は、繊維会社の梱包作業の請負から始まった。真面目さだけを取り柄にして、順調に成長してきた。その中で、大きな転機は、何年かぶりに偶然会ったブラジルから一時帰国中の近所の青年の話だった。彼の勧めで1985年にブラジルに訪問したときから、大きく私の人生が変わった。
 当時、ブラジルでは政情不安と激しいインフレが起きていた。スーパーマーケットで買い物をしていると、後から値札を取り換えにくる状態だった。1986年、89年、93年の3回に亘り、1000分の1というデノミを行っている。こうした状況で、ブラジルでは大勢の人が生活に困窮していた。一方、日本では1980年代後半の90年のバブルに向けて経済が拡大し、徐々に人手不足感が出ていた。ブラジルから日本に働き手としてきてくれた人々は「円」を手にし、喜んでブラジルに戻っていった。医者は開業できた。農家は農機を買った。弁護士はサンパウロに事務所を開いた。本当に多くの人が日本に来ることで人生を立て直していった。また、人手不足で困っていた日本の会社も助かった。多くの人が救われる仕事にめぐり合ったと考えた。私はまさに天職だと思い、がむしゃらに突き進んでいった。結果的に、累計6万人余りを雇用することとなった。
 1990年の入管法改正・施行により、日系3世にも「定住者」という在留資格が認められ、日本国内における就労制限がなくなり、日系人の入国者数が急増した。しかし、南米日系人の生活支援・定住支援に取り組む団体はほとんどなかった。日系人も日本人と同様の確率で障がい者は発生、相談に来る人も増えてきた。私は90年代後半に、こうしたことに関心を持ち、いろいろなことを始めた。

3. アバンセグループ
 アバンセグループは、高齢者、非正規労働者、女性、外国人、障害者のセーフティネットでありたい。ボランティア活動、NPO、コミュニティビジネス、株式会社として関わっている。株式会社は何かお金が必要なときに、それを出すところと思っている。
 ボランティア活動とは、不思議なものであり、最初は自分でお金を出して始めるが、そのうち8割位は他の誰かが出してくれるようになってくる。外国人の生活相談、労働相談、医療相談などのボランティアでは、最初の4年位は自分達で行っていたが、そのうちにJICAなどが行うようになった。私の活動のほとんどは誰かが応援してくれる仕組みになっていっている。しかし、活動資金の全額は賄えず、大抵2〜3割位は足りない。もし余れば、他にも何かできるが、なかなかそうはならない。できれば、コミュニティビジネスにして、自立可能なようにしたいが、上手くいかず、NPOにしている活動もある。

4. 多方面にわたり困った人を応援
 「NPO法人中部日中友好手をつなぐ会」は、中国残留孤児のために、(1)認知症グループホームの運営、(2)共同墓地の運営・管理、(3)生活相談、交流会等を行っている。「NPO法人交流ネット」は、日本に住む外国人の就業・生活支援のために、(1)相談事業、(2)交流イベント開催、(3)外国人のための就職フェア開催、フリースクール・児童デイサービス「エスペランサ」、移民資料館(移動式)資料提供、といった活動をしている。「のわみ相談所」は、もともと外国人を応援するために始めた。しかし、困った人が色々と来られ、今では野宿者・ホームレス・生活困窮者・社会的弱者のための生活・自立支援のため、(1)一時宿泊所運営、(2)DV被害女性用シェルター運営、(3)断酒会・救生の会・炊き出しの定期開催、(4)身寄りのない方のための共同墓地建設・運営に取り組んでいる。ホームレスの人達と接して感じたことは、その人達は、食べるものがあり、洗濯ができ、シャワーで身体が清潔になると、生き方を考えるようになる。職業安定所では駄目だと言われて、地域の人に目線も合わせてもらえない人達や、人生を諦めていた人達も、私共のところに来ると、皆が考えるようになる。そして、働くようにもなる。

5. ボランティア活動をするようになって
 最後に、ボランティア活動をするようになって、次のことが起こった。第一に、家庭が和やかになった。第二に、求人しなくても人が集まるようになった。第三に、従業員とのトラブルが減った。第四に、新規事業が増えた(特に福祉系事業)。第五に、一昨年、愛知県弁護士会から、経営者として初めて「人権賞」を受賞。合同労働組合(コミュニティユニオン)の全国大会で、派遣会社の経営者としては初めて講演をしたり、仕事以外のさまざまな縁が広がった。第六に、これが一番大事な事だが、私は生きている限り社会が必要としてくれる実感がある。会社もリーマンショックで大きなダメージを受けたが、順調に回復しており、幸せな仕事人生の最後を過ごせているのもボランティアのおかげだと感謝している。

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【25年7月度産業懇談会(木曜G)模様】

『今、尖閣列島付近で何が起こっているか?』
(日本版「接近阻止・領域拒否戦略」体制の構築)

日  時:平成25年7月4日(木) 12時00分〜14時00分
場  所:名古屋観光ホテル 18階 伊吹の間
参加者:53名

スピーカー:
永岩 俊道(ながいわ としみち)
株式会社双日総合研究所 
防衛・安全保障チーム 上席客員研究員

永岩 俊道氏

1. 安全保障への関心の高まり
 今日は参院選の告示だが、数年前までは安全保障は票にも金にもならず、国民の関心も乏しかった。ところが、最近、政治家は国家安全保障を語れないと政治家たり得なくなった。国民もようやくそういった危機感を持つようになった。その意味では中国に感謝しなければならないと思っている(笑)。地球の地図をひっくり返して見ると、日本周辺の国際関係がよくわかる。中国は東シナ海だけでなく、東西南北、四方に国境がある。日本からのみの見方だと、中国の全容を見誤ってしまう恐れが有る。
 さて、私が航空自衛隊で航空支援集団司令官を務めていた頃、時には息抜きも必要ということで「川柳大会」を実施した。当時、海外によく派遣されていたが、最優秀賞には「家族聞く、イラクスマトラつぎは何処」という句が選ばれた。佳作には、「日々有事 誰か止めてよ あの人を」、「クールビズ、うちは夏からウォームビズ」などがあった。司令官賞には「嫌な予感、後ろを見れば司令官」という作品を選考した。戦闘機乗りはいつも“ALWAYS CHECK 6 O’CLOCK”と言う。戦闘中、相手を追い詰め、しめたと思ってまさに射撃しようとした瞬間に後方に隙ができ、自分のほうが撃墜されてしまうケースが非常に多い。「常に後方チェック」は海外における作戦地域での生き残りのためにとても重要なこと。そうしたセンスを隊員たちに日頃から植え付けるようにしていた。

2. 我が国周辺におけるロシア機及び中国機の活動状況
 私は2週間前ほど前に中国に行き、中国の軍人、戦略家らと安全保障対話を実施してきた。彼らの態度は、まず、日中間に領土問題があることを認めない限り、あるいは「棚上げ」に同意しない限り、それ以降の発展的な話は出来ないという頑なな姿勢であった。当方どもは、日本領有の正当性や歴史認識、実効支配の状況等を説明したが、彼らは頑なであり理解しようともしない。最近の中国は、大国意識が顕著であり、強引、尊大な所が見え隠れする。最近、日本人の中国に対する見方が変わってきたが、それは、世界の人たちの中国に対する警戒心も同様のこと。
 安全保障上、隣国の動態は、常時継続的に監視しておかなければならない。加えて、領土、領海、領空保全は、国の主権に係わることであり、毅然と対応しなければならない。冷戦時代はソ連機に対する緊急発進が多かったが、最近は中国機に対する緊急発進が多くなってきている。昨年度は、中国機に対するスクランブルが最も多かった。
 領空保全は、国際法上認められた権利であり、国の責務である。航空自衛隊の対領空侵犯措置は、国際法、国内法に則り、厳格にかつ信頼性高く実施されている。対領空侵犯措置における信号射撃は、威嚇目的の使用ではなく、警告の一手段である。尖閣諸島に対する領空保全は、我が国として従来から実施してきたところであるが、中国は今回初めて意図的に領空侵犯を行った。中国は意図的にステップを挙げてきていると認識する必要が有り、これらに対しては、常時継続的な警戒監視を怠らず、毅然とした領空保全の態勢を堅持することであろう。そのための運用基盤を万全に維持する必要が有る。

3. 日本を取り巻く状況変化に適応する。
 「日本人は、大変な状況が目前に有りながら、何故。アンティシペイト(先手を打つ、未然に防止することを)しないのか? 不思議な民族だ」、「大変な問題を先送りしておいて、結局、にっちもさっちもいかなくなるような状況に追い込まれる」、「結局、嵐がすぎるまで小手先でごまかして、そして後始末をおざなりにやり、後はのど元過ぎて熱さ忘れる。これが大和民族・・・」
 我が国を取り巻く戦略環境変化には非常に厳しいものがある。中国・インド等が急激に台頭するなか、米国の相対的影響力の低下傾向が著しい。加えて、ロシアの復活、北朝鮮政権の世代交代等の状況変化のなか、離島、SLOCでの軍事的な衝突の恐れ、ナショナリズムの台頭、エネルギー争奪戦、大量破壊兵器の拡散、中東の不安定化、世界規模の経済危機の発生等の恐れが存在する。
 日本は、戦後60有余年間、幸運にも平和を享受できたが、これは奇跡的なこと。反面、依頼心が蔓延し、確たる国家観を喪失するとともに、長期的な戦略観を欠くことになった。諸外国の強かな外交戦略の狭間にあって、「誇り高き日本」の片鱗は薄れ、「リスク共有」の覚悟も希薄化してきている。また、自らが安全保障上極めて弱い立場にあることすら認識できなくなっており、危機感も薄い状況と言わざるを得ない。
 安全保障に対して関心を持たないことは、中国の膨張に対して「どうぞ」と言っているようなもの。中国にはどうも国境の概念がなく、その時代の国力に応じて国境が延伸すると思っているふしがある。
 「この世の中に生き残ったものは決して、その種が強かったからでも、頭が良かったからでもない。その時代に、最も適合したものこそ生き残れる。」それは、国家も同じであり、状況変化にしっかり適応しないと日本は生き残れない。また、「自分で自分を守ろうとしない者を誰が助ける気になるか(マキャベリ)」ということも忘れてはならない。いざ事が起これば、日米安保で米国が助けてくれると認識する人が多いが、とんでもない。やるべきことを自分でやらないと、日本のことなど誰も助けてくれない。安全保障に関して、日本は仮想現実から覚醒しなければならないし、「他人事意識」から脱却しなければならない。

4. 我が国周辺の戦略環境変化と中国戦略
 1982年、中国人民解放軍近代化計画の中で、劉華清海軍司令員(当時)は3段階の海軍戦略を提唱した。第1段階は、2000年から2010年に達成しようという目標であり、沖縄—台湾—フィリピンを結ぶ第1列島線内の海をコントロールしようという構想であり、第2段階は、2010年から2020年代、小笠原−グアム−インドネシアを結ぶ第2列島線内の海をコントロールしようという構想である。第3段階は、米国の太平洋及びインド洋における軍事的優勢を空母中核の軍事力増勢により、終わらせるというものである。
 中国は毛沢東の「遊撃戦論」から、「情報化条件下のハイテク戦で戦って勝てる軍隊」へと急激に近代化してきている。中国軍事力近代化の注目分野は、その戦略的投射能力の向上であり、中距離弾道ミサイル、巡航ミサイル、新型攻撃潜水艦、高性能戦闘機、電子戦能力等に加えて、サイバー攻撃能力、対宇宙システム能力等が挙げられる。
 最近の中国の動向を見るに、その戦略思想の潮流は、ケ小平の「二十四文字戦略」にあると考えると解りやすい。その戦略思想は、「冷静に観察せよ、我が方の立場を固めよ、冷静に事態に対処せよ、我が方の能力を隠し好機を待て、控えめな姿勢をとることに長(た)けよ、決して指導的地位を求めるなかれ」というものであり、ケ小平の指示を、「不必要な挑発、過度の国際的負担の回避、及び長期的な中国の国力構築を通じ、将来のオプションを最大限に広げるための戦略を示唆するもの」とみることができる。「意図と能力を隠そうとする」ということ自体が長期的な戦略であるとも考えられる。その中国は、最近、「平和的台頭」という穏やかな「微笑み外交」のスタンスをもはや捨て去ったかのように見える。南シナ海はもとより、尖閣列島周辺でも漁船や公船の強引な活動が事態を深刻化させており、もはや実力行使の段階に移行しつつ有るとも懸念されるようになった。習近平政権がどのような政策を推進していくかは未だ明確ではないが、最近の中国の動向をみるに、中国は既に「有所作為」の段階に至っていると見ることが出来よう。
 中国は、通称、「接近阻止・領域拒否(Anti-Access Area Denial : A2/AD)」戦略を構築しつつ有ると言われている。中国のA2/AD戦略のうち、接近阻止(A2)とは、中国の内海領域への対象国の侵入を阻止することであり、領域拒否(AD)とは、当該領域内での対象国の自由な活動と作戦行動を拒否することをいう。中国のA2/AD戦略とは、西太平洋から南シナ海領域に対する米軍のプレゼンス活動を妨害しつつ、米軍の軍事作戦への介入を抑制・阻止するとともに、情報化の環境下の領域における戦闘で、展開する米軍に戦って勝てる能力を確保することにより、当該領域における米軍の自由な活動と作戦行動を阻害することを狙った戦略であると考えることができる。

5. 日本版「接近阻止・領域拒否」戦略の構築
 その戦略重心を陸地から海洋方面へとシフトさせようとしている中国にとって、南北2000キロメートルに及ぶ日本列島線はストレスの無い海洋進出に対する障害線そのものである。戦略的に考えるならば、昨今の尖閣列島や南沙諸島を巡る攻防は、その第1列島線内を内海化しようと考える中国と、米国主導の海洋秩序を維持しようとする既得の海洋国家群とが互いに対峙している構図であると見ることが出来る。尖閣列島に対する中国の挑戦的な言動や諸々の活動は、中国の「接近阻止・領域拒否」戦略の一環であると考える必要があり、日米を離反させようと画策する一種の戦術と認識する必要がある。
 日本にとっての尖閣列島防衛とは、日本の国益を日本自らの意思と行動によって毅然と守るという、責任ある大国としての日本の国柄というものを内外に知らしめることである。台頭する中国に対し、臆せぬ態度で国益を主張する日本の謙虚かつ毅然たる姿を世界の国々は注目している。日本は、尖閣列島を含む南西諸島の戦略的価値について世界に発信しつつ、安定した世界秩序の維持に貢献する日本のスタンスというものを謙虚に、但し、力強くアピールしていく必要が有る。なかでも、同盟国である米国とは関連の価値観をしっかりと共有する必要がある。
 台頭する中国のA2/AD戦略に対して、節度を持ちながらも強靭な日本版A2/AD戦略を整えることが出来れば、中国側の無用の軍事的エスカレーションを招くこともなかろう。これらの体制整備は、日本最大の国益である領域防衛に直結するのみならず、結果的に米国の戦略とも協調し、ひいては、地域の安定・繁栄にも寄与するものとなる。日本が毅然たる意思を示すことによってその立ち位置を明確にすれば、米中間の過度の軍拡傾向も抑制されることとなろう。
 日本版A2/AD戦略とは、中国による第1列島線内の内海化を阻止する体制を整えることである。日本は、まず、南西諸島列島線の地理的特性を有効活用し、日本自ら信頼性の高い防衛体制を構築する必要がある。その体制が整った後、周辺の状況変化を念頭に、日米同盟体制の適合化を図る必要が有る。
 事態が不意に発生した場合、国土、国民を守るべき役割の国家や自衛隊等は、それまでに準備できた「所与の条件」でしか戦うことが出来ない。『今そこにある危機』に適切に対応するためには、その「所与の条件」のレベルアップを速やかに図る必要がある。我々に残された時間的余裕は少ない。

6. 指導方針
 最後に、私自身の現役時代の指導方針を幾つか紹介したい。
 「変わる勇気・変える決意!」〜自衛隊とて官僚組織。去年作った作戦計画や練成訓練計画を計画通りにやれば済むと思っている者がいないわけではない。しかし、クライシスは計画通りには起こらないし、準備した通りに対処できるものでもない。クライシスは、予想外の時期に不意突然発生し、そのマグニチュードも計り知れず、場所も特定できない。これらに適切に対応するには、指揮官のみならず、隊員、部隊が変化への感性を高めるとともに、組織を変える勇気と決意を持たなければならない。
 「日々有事!」〜「日々有事 誰か止めてよ あの人を」の「あの人」は私かもしれない。「常在戦場」は大事なセンス。
 「THE BUCK STOPS HERE!」〜アメリカのある大統領が自分の机の名札の裏にこう書いていたそうである。「責任を後ろに放り投げない。責任をもって自分で決心する」という意味だが、これはリーダーシップ教育では非常に大事なことである。
 「所与の財産で戦う!」〜10年計画で10年後には戦えるといっても仕方ない。クライシス発生には、いま持っているものでしか戦えない。防衛力整備は人的養成も含め、10年単位の長期間を必要とする。そのことを念頭に、百年、兵を養わなければならない。
 「組織の不安定化!」〜組織は不安定にしておいてこそ使える組織になる。不測の事態に迅速・的確に対応するには、組織を構成する全員が鋭い感性で常にファイティング・ポーズで身構えておかなければならない。組織の感性を高める上で、組織の不安定化は欠かせない。ただし、アンコントールの不安定ではなく、コントロールの不安定を追及しないといけない。

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【25年7月度産業懇談会(火曜G)模様】


テーマ『 鉄道を通して経験した地域との付き合い方 』

日  時:平成25年7月9日(火) 12時00分〜14時00分
場  所:名古屋観光ホテル 18階 伊吹の間
参加者:20名

スピーカー:
寺島 優(てらしま まさる)
シーエヌ建設株式会社 取締役社長

寺島 優氏

1. まずは自己紹介
 実は、私は10年程前に名古屋ターミナルビルの社長やJR東海の非常勤取締役をしていた。その頃、木曜グループの例会で話したことがあり、こうした場で話すのは2回目である。これから話すのに用意した写真の半分くらいは当時のものと同じだが、今思うと、前回は大学の講義みたいになっていた気がするので、今回はもう少し裏話を入れたい。
 まず簡単に自己紹介をすると、私は名古屋市中村区で生まれ育った。名古屋の大学を出て、1972年に国鉄に就職し、東京や北海道の札幌や空知地方(現在の岩見沢市)などで勤務した。その後、千葉に移ったが、成田空港の開港準備が進められている最中であり、ジェット燃料を千葉港から鉄道で運ぶうえでの線路の保守業務に携わった。その当時、管制塔が襲撃されて開港が予定よりも半年遅れになるという状況であり、ダイヤ調整などに苦心した。
 1979年4月、ニューヨーク事務所ワシントン駐在となり、米国の運輸省の中に机を置いた。第2次オイルショック後のガソリン価格の値上がりにより、米国新車市場では小型車へのシフトが進み、日本車の輸出が増加していた。これに対して、米通商代表部は貿易不均衡の是正のために米国からの資材調達を求めてきた。電電公社さんは通信ケーブルを買ったが、国鉄には米国から買うものがなく、代わりに技術協力をすることになった。日本の技術者を派遣して教える一方、米国の技術者を日本に迎えいれたが、その窓口として私が米国に赴任したのである。
 日本に帰国した後、東北新幹線の上野駅への乗入工事を担当した。その後、本州四国連絡橋公団において、瀬戸大橋の建設に携わった。1988年にJR東海に入社してからは、主に自治体との協議を担当し、最後は安全対策部長として東海地震対応に取り組んだ。
 2003年12月に名古屋ターミナルビルの社長となり、2006年6月からは現在のシーエヌ建設にいる。

2. 米国勤務時代の思い出
 米国では、ワシントン、ニューヨーク、ボストンという北東街道を走る鉄道の設備の修繕に対するアドバイスを求められた。ワシントンから北へ40kmにあるボルチモアでは脱線が多く、私がいた間にも1年間に3回起きていた。その構内は下りこう配になっていたからである。列車がブレーキを掛ける時には、前の車両から後ろの車両に空気が流れて順に掛かっていくが、長い列車だと前から後ろまでブレーキがかかるのに15分くらい掛かっていた。そのために、後の車両にはブレーキが利いておらずに押されて浮き上がってしまい、脱線が起きていた。
 さて、ゴールドシュミット米運輸長官を撮影した写真を直接手渡そうと訪ねたことがあった。その時に、長官室で私が札幌での勤務経験があると話すと、長官の態度がガラリと変わった。長官は元ポートランド市長であり、ポートランド市と札幌市は姉妹都市であった。
 運輸長官はポートランド市長当時、札幌市長に会いに行く約束をしていたが、運輸長官になったがために、約束を果たせずに行けなくなったと言う。したがって、私に対して、運輸長官として札幌に行ける手立てを教えてくれないかと頼んできた。そこで私は、工事中の青函トンネルや空港と鉄道がつながった千歳空港駅(現南千歳駅)を見に行くと良いことや、東京や京都も一緒に訪れる行程を絵に描いて説明した。クリスマスから行きたいと言う話であったので、年末年始にあたる為、日程のアドバイスもした。また、奥さんはトンネル工事の現場には入れないことなど細かなこともアドバイスした。私は英語が得意な方ではなかったが、長官は一生懸命に聞き返してくれたので、正確に伝えることができた。
 私は英語が苦手だったため、電話では相手に伝わらないので、直接会って話すようにしていた。そのため、運輸省の中をまるでボーイのように走り回っていたので、私には「寺島ボーイ」というあだ名がついていた。

3. 日本でのエピソード
 瀬戸大橋の建設工事を進めていた頃、いまNHKの夜9時のニュースを務めている大越健介さんが岡山局に居て、私のところにもよく取材に来た。当時、用地買収でなかなか応じてくれない地区があったが、ある地域が買収に応じて、残りは3地区という趣旨の報道をローカルニュースで取り上げてもらったことがあった。それによって、残りの地区の買収も進んだ。
 名古屋では新幹線の「名古屋飛ばし」の話が出たことがある。その時には、名古屋市などとの調整も大変だったが、最後は一件落着することができた。また、ナゴヤドームに関しては、JR東海はもともと株主ではなかったので、第3者割当増資を受けることから始まった。駐車場が足りないので、JR東海の土地に立体駐車場を建設するという話が出た。しかし、それは周囲の環境から適切でないと思ったが、JR東海は土地を貸し、第三セクターが建設する計画にして名古屋市から発表したところ、予想通り地元からの大反対が起こり、取り止めとなった。結局、名古屋に地下鉄が大幸に延伸するまでの2年間、JR東海が臨時列車を出すことによって対応することになった。当時は4時間を越える試合も多く、ドームでは終電の案内放送も行われていた。
 また、豊橋駅や新横浜駅の駅前整備に関わる交通結接点改良事業や津駅前再開発事業にも数年間に渡って関わることになった。
 本日は御清聴ありがとうございました。

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【25年7月度産業懇談会(水曜第2G)模様】

テーマ『 企業経営におけるコンプライアンス・
            コストダウン・環境ビジネスのお手伝い 』

日  時:平成25年7月10日(水) 12時00分〜14時00分
場  所:名古屋観光ホテル 18階 伊吹の間
参加者:22名

スピーカー:
田中 信たなか まこと)
オリックス株式会社 名古屋支店長

田中 信氏

1. 転勤族も悪くない・・・。
 私は福岡県出身で今年48歳。昨年、妻と2人の小学生とともに名古屋に転勤してきた。趣味はゴルフ。まず、これまでの赴任地について、観光案内も多少含めて話したい。
 弊社の場合、北は旭川から南は沖縄まで支店がある。辞令発令から2週間後には着任せねばならず、転勤族は大変だが、見方を変えれば、会社から長期間の観光に行かせてもらっているとも言える。我々営業マンの第一歩は、その土地で如何に楽しむか、その土地を如何に好きになるかということである。
 私は1988年に当社に入社し、大阪の淀屋橋の近くに配属された。そこで4年間、御堂筋界隈や本町界隈を駆けずり回る日々を過ごした。1992年に初めての転勤となり、熊本支店に赴任した。熊本には熊本城や馬刺しもあり、最近、くまモンもいる。熊本市から車で1時間くらいのところには、阿蘇山の雄大なカルデラが広がり、観音様が横たわっているように見える外輪山のパノラマが見える。それが阿蘇山信仰の一因にもなっている。さらにその先、30分くらいで黒川温泉がある。何もない山の中の30軒くらいの温泉街だが、1980年代から、若手の経営者が中心になり、街全体で盛り上げようと取り組んでいる。自然のままの中に温泉をつくり、道路のガードレールを白色から茶色に塗り替え、自然に溶け込ませるなどの取組みが奏功し、全国から大勢の人が訪れている。
 1996年に次の辞令で京都支店に転勤した。京都では京都通り歌にある街割りを覚えることから始めた。観光スポットが大変多いが、ちょっとディープなスポットとして二条陣屋や方広寺がある。また、京都の街中には石碑が其処ら中にある。その次は2004年に福岡支店、次いで2008年に金沢支店、そして2012年に名古屋支店にきた。

2. 企業経営のお手伝い
 オリックスは1964年に、オリエント・リース(株)として設立された。資本金1億円、社員数13名のスタートであり、当時の日綿実業、日商、岩井産業、三和銀行、東洋信託銀行、日本興業銀行、日本勧業銀行、神戸銀行の3商社5銀行が出資した。
 私共の仕事は、ありとあらゆる法人様を訪問し、企業経営のコンプライアンス、コストダウン、環境ビジネスのお手伝いをすることである。本日は以下の3つについて紹介する。

3. テレマティクスサービス
 車のリース事業では、全国で現在、約60万台の車両を保有・管理している。企業にとって、車両運行には様々なリスクが内包されており、例えば、会社名の入った車が危険な運転をしていると会社の評判を落とす。車両の使用実態、つまり、車両のリスクやエコなどを“見える化”することによって、車両運行の重要課題を解決することにつながる。
 そのために開発したものがテレマティスサービスである。タバコの箱よりも一回り大きいくらいの車載器をダッシュボードに装着するだけで、速度違反、急ブレーキ、急アクセル、アイドリング、燃費などが把握され、危険挙動があれば直ちに会社にメールが送信される。社員を縛り付けるようなイメージを持たれることもあるが、逆に、社員を守り、会社のガバナンス強化、コスト削減に貢献できる。燃費は15%程度良くなり、事故が減るために保険料も1〜2割減る。さらに、車両の稼働状況が高まり、車両台数を減らせる。テレマティクスサービスを利用するコストを差し引いても非常に役立つ。なお、このサービスはリース車両だけでなく、自社保有車両にも利用できる。

4. PCレンタルサービス
(説明者:オリックス・レンテック株式会社 地域開発営業部 名古屋支店 
                               支店長 小林 剛輝 氏) 
 レンタルという言葉からは「短期が中心」「高い」という印象を持つかもしれない。しかし、パソコンは購入時の本体価格だけでなく、使用している間、動産総合保険、修理、廃棄などの保有してから運用に伴う費用が生じる。各社の情報システム部や総務部などの人的な費用も、購入価格以外に非常にかかっていると思う。
 私共では、年間10万台程度のパソコンを大量に購入しており、1台からでもスケールメリットを生かした安価な価格でレンタルしている。レンタルしたパソコンは故障したり、落下・水濡れ・盗難などの事故発生時には即日代品交換され、その費用も月額レンタル料に含まれている。使わなくなれば、返すだけでよい。お客様にとっては保守・運用コストや修理納期待ち時間を削減できることになる。したがって、4〜5年位の適正な期間でレンタルしていけば、そのメリットは大きい。また、“壊れないから、7年、8年と何となく使えてしまう”という事と、“適正な性能を維持しながら、ある一定期間で使う”ことは違うということを考えて欲しい。

5. 太陽光発電関連サービス
 私共では、太陽光発電に関連した部門が、この1年間、最も忙しい。パネル販売、パネルリース、電力買取・販売、自社発電事業(メガソーラー)、保守・メンテナンスと幅広く手掛けている。昨年度、全国で570件のお客様にパネルを設置し、金額では300〜350億円に上る。お客様にご提案をしながら、工事業者をアレンジし、工事業者にパネルを渡して設置工事・納品していただいている。パネルを大量購入するスケールメリットをお客様に還元している。

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【名古屋いちばん物語】 No.48


テーマ『 「住吉の語り部となりたい」 シリーズ第28回 』

料亭蔦茂 主人
深田正雄

住吉町に残る紫式部伝説と供養塔

 今春、名古屋コミュニケーションアート専門学校、小説作家専攻堀川泰伝ゼミナールの学生達の卒業制作として「新紫式部往還」(全34ページ)が発刊されました。同校の文学専攻のある総合デザイン科の第3校舎は移転前の「伝光院」敷地の南に位置しております。「住吉の語り部となりたい」シリーズの初回に紫川を紹介した関連もあり、地元学生の依頼で取材協力などから伝説の紫式部との由来を私説にてまとめてみたいと思います。
 今はありませんが、私は昭和27年から料亭蔦茂の西30m三蔵通り南にある白川幼稚園に通っていました。伝光院敷地内で先代の吉田宣章住職が幼児教育の経営をされていたのです。戦後の区画整理後で300坪くらいの敷地でそう広くはありませんが、南北に奥行きが長くて70mくらいあったと思います。通りに面した入口から階段を降りた左側に泉があり水が湧いていたとは覚えています。有名な方(紫式部)の石碑があるということも聞いていました。泉のむかえ西側には集会所を兼ねた本堂があり、週2回ほどバレエ教室もあり可愛い女の子の練習を覗くのが楽しみでした。そして、教室が3つ、年少は赤組、年中は黄組、年長は青組と並び、小さな運動場南奥にはブランコがあり乗るのがチョット怖かった思い出があります。
 清州越しの由緒ある浄土宗法燈山・伝光院は昭和35年に千種区猪高町(現・名東区名東本町20)に移転し、跡地にはマンションが建設されましたが、現在も紫式部の碑は同地の本堂の北にそのままの形で現存しております。
 千年ほど前のことですが、「碑には伝説があって、紫式部に仕えた越後という侍女が登場。
 越後は、湧いていた泉があまりにも清らかなのを見て、『紫式部様をここでお弔いしたい』と村人に頼んだという話があります。」「村人に墓を建ててもらったあと、越後は尼となり、3年ほど墓の前で経を上げておりました。そして、彼女は『紫式部様のもとに参ります』という置手紙を残し、紫川に身を投げたといわれております。」
(伝光院二十八代目現住職・吉田教行氏談)
参照:「住吉の語り部となりたい」 シリーズ第28回HP:http://mrsh.co.jp/sumi1.pdf
 寺に湧いていた泉は越後の入水の後、「紫の泉」とよばれ流れは紫川と名付けられたか、昭和二十年の空襲で伝光院の資料がすべて焼失して、その因果は現代に残されていません。

 では、何故、寺に紫式部の供養塔が建立されたか?江戸時代の家康の都市づくり、政治の江戸、文化の京都、経済の尾張といわれ、名古屋は豊かな経済に恵まれ教育熱心で女・子供にいたるまで読み書きが非常に盛んで、識字率が世界で最も高く85%以上と考えられています。それは武家が職芸として寺子屋で町衆や職人衆に読み書きや学問を教えていたからです。お武家さまが士業以外の仕事をしてもよいシステムで豊かで文芸盛んで平和な城下町といえます。そして、からくりや和時計など物づくりの基礎には「文字が誰でも読める」教育レベルの高さが設計図や指図書を職人衆が理解したインフラがあったといえます。
 町中の人は読み書きができ、寺子屋では教科書替わりに武家の得意な「論語」を学ぶ、すると、人々は恕の心構えを実践、親孝行して徳が上がる。治安も良好、悪質な犯罪やイジメも皆無の理想郷でした。
 それに、文学も盛んとなり短歌を詠んだり俳句を一般庶民が楽しんだとっても裕福な地域といえます。松尾芭蕉はなんども尾張を訪ね、町衆や農家のリーダー達と句会や連歌の集いを開いたりしております。庶民が歌でお互いの心を通わす、平安の貴族文化をたしなむレベルに到達していたようにも思われます。
 女性を中心に平仮名文字も盛んになり、版画印刷の適する源氏物語は名古屋の版元から出版され、街の貸本屋にも常設されるベストセラー。これは私の推察ですが、当時の伝光院の住職さんか檀家衆が同院の寺子屋のPR活動の営業シンボルとして伝説を作った。泉があって、「紫式部に仕えていた官女が住んだ。」という話にしたら繁盛するだろうと考えたかもしれない。町衆は源氏物語が好きだから、それを聞けば入塾申込み殺到。伝光院の住職がロマンいっぱいの石碑や話題を作って、寺子屋繁盛させ紫川にはまったかもわかりませんね?(注釈・紫川にはまる:旭郭が紫川のほとりにあったので、遊女を揚げる隠語)
 そして、子供の頃通った白川幼稚園の由来は、紫式部から連なる庶民教育の伝統と考えると感無量です。
 紫の泉などを源流とする紫川も文明開化・明治時代となり汚染がすすみ、どす黒い流れとなり、住民たちがもっと綺麗になってほしいと願いを込めて「白川」と呼び直したと祖父良矩は語っていました。現在、紫川は埋め立てられ暗渠となりましたが、地下に流れを蓄えて若宮通り洲崎神社の南から堀川に流れております。

写真説明:

  1. 伝光院・紫式部の碑:昭和35年住吉町から寺院ともども移転、現在地は名東区名東本町20
  2. 伝光院本堂:白川幼稚園クリスマスパーティ・園児集合写真:昭和27年12月
    右端・吉田宣章園長、前列右から2人目・年少組の正雄君、サンタクロースの後ろ奥の扉を開けるとご本尊阿弥陀如来坐像があった記憶があります。
  3. 「新紫式部往還」平成25年春刊行の表紙:発行名古屋コミュニケーションアート専門学校、編集:ライトノベル・小説作家専攻

写真:1
伝光院・紫式部の碑(住吉町よりS35年に名東本町に)

写真:2 写真:3

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【9月度産業懇談会開催日程】

名古屋観光ホテルでの開催です。
グループ名 世話人 開催日時 テーマ 場所
火曜グループ

岡部 聰
深田正雄

9月10日(火)
12:00〜14:00

朝日機器(株)
取締役社長 一柳文紀氏
「空調機とエネルギー:エアコン屋のひとり言」
18階
伊吹の間
水曜第1グループ 落合 肇
飯田芳宏
9月18日(水)
12:00〜14:00
エフピーサポート(株)
主席コンサルタント 鳴川基訓氏
「生保雑感&ときどきダイビング」
18階
伊吹の間
水曜第2グループ

片桐清志
見祐次

9月11日(水)
12:00〜14:00
西日本電信電話(株)
取締役東海事業本部長名古屋支店長兼務
東田盛 正治氏
「ICTがもたらすビジネス展望と
課題の克服に向けて」
18階
伊吹の間

木曜グループ

河村嘉男
倉藤金助

9月5日 (木)
12:00〜14:00

丸菱工業(株) 取締役会長 河村嘉男氏のご紹介
いろは日本語の会 
代表 仲村佳子氏
「日本語 喧々諤々??」
2階
曙(西)の間

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【コラム】

コラム1 【保健師からの健康だより】 No.112
花ちゃんからの健康だより

株式会社 スズケン
保健師 鳥巣 妃佳里

『 健康習慣で脳力アップを 』

 暦の上ではもうすぐ立秋です。けれども日中の最高気温は1年のなかでも一番高い時期ですから、日々ご活躍されている皆様の身体には負担のかかる気候が続きますね。猛暑日が続くこの時期には、暑さゆえか、やろうとしていたことをうっかり忘れてしまう、ぼんやりしてしまうなどという話をよく耳にします。

 最近、UCLA Longevity Center ゲーリー・スモール博士らの研究チームが行った調査によると、若い世代で「物忘れがひどくなった」と感じている人が増えているといいます。18〜99歳の米国人18,552人を対象に行った調査の結果、18〜39歳の若い世代の14%が「物忘れがひどくなった」と感じ、同じ質問に40〜59歳では22%、60〜99歳では26%の人が同様の回答をしています。また、健康的な生活習慣をもっている若者ほど、物忘れを実感する割合が低下する傾向があり、その数に比例して物忘れを訴える割合が低下していくこともわかりました。物忘れは年齢が高くなるにつれて増えていくイメージがありますが、軽い記憶障害は若い世代から発症する可能性があるようです

 近頃では、テレビを見ながら新聞を読む、インターネットを見ながらメールを書くなど複数の作業を同時にする「マルチタスキング」が一般化しています。若い世代の物忘れは、この「マルチタスキング」が一般化したことによる生活行動の変化に影響されている可能性が言われており、年を重ねて起こるものとは少し異なるようです。けれど年代や原因の違いはどうあれ、できることなら無縁でいたいものですね。そしてどちらにしても予防のために大切なのは、日々の生活の中で脳を活性化し、脳の機能を守ること。脳の活性化には適度なストレスがいい、とか、知的好奇心が脳力を高める、などいろいろ言われています。そこで今回はアメリカのアルツハイマー協会が提唱している「脳を守るための10カ条」をご紹介したいと思います。

「脳を守るための10カ条」

  1. 頭が第一
    健康は脳から。最も大切な身体の一部である脳を大切にしよう。
  2. 脳の健康は心臓から
    心臓によいことは脳にもよい。心臓病、高血圧、糖尿病、脳卒中にならないように、できることを毎日続けよう。これらの病気があるとアルツハイマー病になりやすい。
  3. 自分の値を知ろう
    体重、血圧、コレステロール、血糖を望ましい値に保とう。
  4. 脳に栄養を
    脂肪が少なく抗酸化物(ビタミンC・Eなど)の多い食品を摂ろう。
  5. 体を動かす
    身体の運動は血液の流れをよくし、脳細胞を刺激することになる。1日30分歩くなど心と体を活き活きさせるためにできることを。
  6. 心のジョギングを
    脳を活性化させてものごとに関心をもつことによって、脳の活力が高まり、脳細胞とそのつながりの余力が生まれる。読む、書く、ゲームをする、新しいことを学ぶ、クロスワードパズルなどをしてみよう。
  7. 他の人とのつながりを
    身体と心と社会の要素を組み合わせた余暇活動は、痴呆を防ぐ最もよい方法。人と付き合い、会話を交わし、ボランティアをし、クラブに加わり、学習してみよう。
  8. 頭の怪我をしない
    頭の怪我をしないように注意しよう。シートベルトを使い、転ばないように家の中を整頓し、自転車に乗るときはヘルメットをかぶろう。
  9. 健康な習慣を
    不健康な習慣を避け、タバコを止め、飲み過ぎないようにしよう。
  10. 前向きに考え、今日から始めよう
    あなたの明日を守るために今日からできることをしよう。 

 前述の調査では、健康的な生活習慣を1つ持っていると21%、2つ持っていると45%、3つ持っていると75%、物忘れを実感している割合が低下していたそうです。脳を守る10カ条にかかれている内容には特別なものはありません。一般的に健康のために大切と言われているものばかりです。ですが1つずつでも身に着けていくことで脳がいきいきと健康に保たれれば、日々は楽しく、人生は豊かになります。脳力アップのために、今日からできることをはじめていきませんか。

脳力アップのために、ポジティブ思考で、今日からできることをはじめていきましょう!

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コラム2 【「ほん」のひとこと】 No.57
コラム【理念経営物語】

株式会社 正文館書店 取締役会長
谷口正明

『 人間はどういう動物か 』
日高敏隆著・ちくま学芸文庫

 「人間はどこまで動物か」、ではありません。この、問いの立て方が、この本の核心です。「あとがき」に、こうあります。
 「人間はどう生きるべきか?」ということは、昔からたえず問われてきた。しかしぼくは、今われわれにとって重要なのは、「人間はどう生きるべきか?」を問うより「人間はどういう動物なのか?」を知ることであると思うようになった。
重要な問題を、実に平明な言葉で語っています。本物の学者にしかできないことでしょう。取り上げるテーマも面白い。人のおっぱいはなぜこのような形になったのか? いわゆる「先進国」では少子化が進み「第三世界」ではその反対であるのはなぜか? 人はなぜ戦争をするのか?
 動物行動学の草分けとして長く第一線で活躍し平成21年に亡くなった著者晩年の書(平成20年、ランダムハウス講談社刊『日高敏隆選集[』の文庫化)。

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コラム3 【苗字随想】 No.134コラム【理念経営物語】

片桐清志

一字姓について(1)

 今回からしばらく一字姓についてお付き合いいただきたい。
 手元にある名刺を見ると佐藤さん、鈴木さんのような二字姓が圧倒的に多い。しかし佐々木さんや長谷川さんのような三字姓もあるし、林さんや森さんのような一字姓も少なくない。稀にだが勅使河原さん長曾我部さんのような四字姓もある。
 因みに長い苗字では五字姓が最長で、勘解由小路(カデノコウジ)と左衛門三郎(サエモンサブロウ)の二種の現存が確認されている。十二月三十一日(ヒズメ)の七字姓が紹介される場合があるが残念ながら現存が確認されていない。ジョークとしてなら万里(バンリ・マンリ・マリ)も顔を出すかもしれない。
 では比率的にはどうなのだろうか?武光誠氏(明治学院大教授)の研究によれば、種類としては二字姓が86%強、三字姓が約10%、一字姓が約3%、四字姓・五字姓は1%弱だ。因みに手元にある中部経済同友会の名簿(2012.9版:865名掲載:カタカナ名会員を除く)では二字姓が93%強、三字姓が3.4%、一字姓が3.6%、四字姓が0.1%、五字姓は見当たらなかった。同友会名簿は人数分布(同じ苗字もダブルカウント)での算出のため比率は少し異なるが傾向は似ている。
 ランキング(佐久間 英)では一字姓では林(19位)、森(26位)、辻(48位)、原(53位)、関(74位)の5姓が100番内に登場するのに対し、三字姓は佐々木(14位)、長谷川(21位)の2姓が登場するだけなので、種類の比率と人数の比率は大きく異なってくる。同友会名簿のように、もしかしたら人数分布では一字姓が三字姓を上回るかも知れない。
 では一字姓は一体何種類あるのだろうか?先ほどの武光氏の著書でもサンプリング調査のためだろうが実数は明記されていない。武光氏は日本人の苗字の種類を約29万種としているので逆算すると約1万種弱だろう。因みに別の書(「日本の苗字」日本経済新聞社刊1978版:約11万種収録)で一字姓を拾ってみると漢字の種類で1600字弱が収集できた。一字の読み方は一通りの場合もあるが多いものだとなんと13通りもの読み方がある。読み方が異なる場合は別の苗字とカウントすると3200種余になる。平均的には2通りということになる。一字姓の比率は11万種に対して3200種なので3%弱となり武光氏の比率と同様の結果となった。
 次回から収集した1600字の苗字あれこれを眺めることにする。

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【平成25年7月号編集後記】

 記録的な猛暑が続いている。先月号のコラム「保健師からの健康だより」の「かくれ脱水に気付いていますか?」をもう一度読み返して、早めの気付きと「かくれ脱水」の予防に努め体調を維持したい。
 このコラムもボランティアで寄稿いただいているが、水曜第1グループの林 隆春氏(アバンセコーポレーション)の「ボランティアは会社の成長エンジン」では、林氏が四半世紀にわたって続けてきたボランティア活動の実例と考え方が紹介されている。是非本誌を一読いただきたい。
  ともすれば「プラスα」と位置付けがちなボランティア活動を、林氏は事業活動の中心に据え、ビジネスモデルを工夫しながら自立を模索している。日本で働く日系ブラジル人の雇用がきっかけだが、慣れない異国の地で生活することは様々な困難に遭遇する。その都度、林氏は彼らの相談相手になり、セーフティネット作りを行っている。
 どんなニーズであれ、ニーズはビジネスの出発点だ。しかしそのニーズがビジネスとして成立するためには一定の規模が必要だ。そのため、その多くは自治体やボランティア団体の取組みに委ねられる。その結果、自立化できずビジネスとして成立しないケースが多い。林氏は自治体等の支援を頼らず、当初から自らの手でともかく活動を始める。その活動を続けるうちに、評価され、支援の輪が生まれる。結果は後からついてくる。林氏がボランティア活動を続けていくことで掴んだことを要約している。「生きている限り社会が必要としてくれる実感がある」がさわやかな印象を与えてくれる。

(片桐)