産懇宅配便100号特別増刊号
平成22年10月度(第100号特別増刊号) 目次
巻頭言
特別寄稿
代表世話人メッセージ
世話人メッセージ
歴代世話人メッセージ
事務局長メッセージ
資料集

巻頭言
『 産懇宅配便100号を迎えて 』

中部経済同友会 代表幹事
水野 耕太郎
東邦ガス株式会社 取締役会長)

水野 耕太郎氏

 本年、産業懇談会が創設30年、そしてメールマガジン「産懇宅配便」が記念すべき第100号を迎えられましたことを心からお祝い申し上げます。これもひとえに世話人の皆さまはじめ、ご関係の皆さまの長年にわたるご尽力の賜物と、改めて厚く御礼を申し上げます。
 産業懇談会は昭和56年に会員同士が異業種交流を通じて、相互に啓発し合い、自らを磨く場としてスタートして以来、グループごとにいろいろ趣向を凝らして頂くなかで、活発な活動を展開してこられました。今では産業懇談会は中部経済同友会活動の集まりの約4割を占めるなど、本同友会活動の根幹を占めるまでに発展をしてまいりました。
 この度、メールマガジン「産懇宅配便」が第100号を迎えられましたが、産業懇談会が今日あるのは、本メールマガジンを通じて、会員間の一体感と相互の固い絆が醸成されてきたことが大きいと考えています。その中心を担われ、長年にわたり多大なご尽力を賜ってまいりました片桐さまはじめご関係の皆さまに、改めて衷心より御礼を申し上げますとともに、今後ともよろしくお願い申し上げ、お祝いの言葉といたします。            

以上

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特別寄稿
『 日本経済の30年前と現在を考える  』

元中部経済同友会 代表幹事
内藤 明人
リンナイ株式会社 取締役会長)

内藤明人氏

 昭和50年頃に中部経済同友会の代表幹事を務めておりましたが、当時オイルショック後の長期不況から脱するかにみられた日本経済は、ロッキード問題に端を発し政治空転による公共投資の削減、設備投資意欲の停滞、個人消費の低迷により「中だるみ現象」となり安定成長への回復軌道にのることは難しいといわれていました。かくして日本経済は「厳しい不況からの脱出」「産業構造の転換」という重大使命を担う時に、私は本中部経済同友会の筆頭代表幹事となりました。
 そこで当年度の基本方針に
「新しい安定成長の経済及び社会を築くには人間性、経済性、社会性の調和こそ必要なこと」
「新しい時代において企業はその社会的使命を自覚し、時代のニーズに対応した企業家精神を発揮すべきこと」
を基本理念としました。
 日本経済の現状をみますと30年振りに再会している様に考えられます。
その頃勉強会の講師として
(1)名古屋大学 教授 小川英次氏には「現段階における企業経営の方向と 実践」
(2)東海銀行 調査部長 神谷満雄氏には「西ドイツにおける経営参加の問題」
(3) 名古屋大学 教授 飯田経夫氏には「低成長下における企業経営のあり方」
等の話を聞き勉強しました。
丁度今、日本及び世界経済は停滞しています。このときこそ中部経済同友会で内外の経済事情を勉強し、次への日本の発展を勉強すべきときではないでしょうか。


『 私の日記より  』

株式会社三豊ビル 代表取締役会長
向 博 

向 博氏

○入会1972年(昭和47年)2月23日入会当時
 1月24日、グワム島密林内で、現地人が太平洋戦争生き残り、元陸軍軍曹横井正一氏(56歳)が保護された。当時郵便、封書20円、葉書10円。2月3日、第11回冬季オリンピック札幌大会に於いて、笠谷幸生選手が冬季オリンピック初のメダルで優勝、2位、3位、日本独占。2月26日、東証ダウ(今の日経平均)3,000円台、8月16日4,000円台、年末には5,000円台、良き年であった。
 前年、昭和46年8月、ニクソンショックを受け、輸出関連業界の人々は、1$360円から、2月4日、東京外国為替市場は、1$307円70銭となり、関係の人々には、会合のその都度質問を受けた記憶がある。この年から、西日本同友会大会に参加をしたり、田中角栄総理の日本列島改造論が出て、名古屋地区も土地価格が上昇し始めた。特に川瀬代表幹事には、ロータリーを通じての関係もあり、特別声をかけて頂いた。
 それから10年、昭和56〜57年頃、産業懇談会なるものが生まれた。初めはさほど良い企画とは思わなかったが、今思えば、個人個人のつながりが生まれ、現在、大変楽しい会になりました。語り易く、うち解けやすい、古い者も新しい者も一枚の名刺がつなぐ、食事、話に花が咲き、和気藹々となり、隣組の様な会に育っている。
 時はいつ頃と聞かれると全く記憶が残っていないが、今から約30年〜35年前、同友会の会合で、今は亡き大隈鉄工の社長大隈孝一氏(第8代代表幹事)が、同友会はどういう会かと発言、私のいるテーブルを爆笑で包んだ時があった。ところが2〜3年前、私はその言葉の答えを自ら体験をする事が出来た。同友会の会合が金山の市民会館で行われた時、風の強い日で少々小雨がパラついていた。金山市民会館前の道路は出迎えの車でいっぱいである。私の車は前もって、こちら側はいっぱいになるので向側で待つ様にと伝えておいた。急いで向側に渡る為に、信号機の前に立って青信号を待つ。中々信号機は青にならない。その時、信号機に一番近い黒塗りの車から運転手さんがそっと電柱に近づいて、又車の中に消えた、まもなく信号機は青になった。私は急いで向側で手を振っている私の運転手のもとへ駆けて行く。さほど雨にも濡れず、車中の人となる。その時、私はふと、あの信号機は手動式なのだ、あのお迎えに来ていた車の運転手さんは、手動式を知らず待っている私の為、小雨が降っているのに、見知らぬ私の為、雨に濡れる事もいとわず信号機のボタンを黙って押してくれた。私は衝動を受けた、と共に、感動でした。その車の主はわからねど、その主なる人と運転手さんに心の中で手を合わせ、お礼と共に自らの幸せを感じた。長から運転手さんに至るまですばらしい教育ができている、我が社もかくありたいと教えられた。同友会はどういう会だ、大隈代表幹事の答えは、同友会はこういう会だと80歳の坂を越した私にその時つくづく教えられました。これからも同友会はこういう会だと数多く教えて頂く事を祈念している。

○その感動の日に近い私の日記に、
 人口1億2,400万人、同一語、同じ考え方、同じ趣味を持つ、単一化した日本。経済発展をする為に必要な労働力にプラス、近代化の条件。
 古事記、日本書紀、天皇の祖先、天ツ神、外から来た人。国つ神、土着の人。約1万2000年前から始まった縄文時代、人は狩猟採集をして生活していた。弥生時代に入って、稲作農業の技術を持った人が、大陸からやって来た。土着の人々と、生活をするようになった。渡来の弥生人が支配し、土着の縄文人が被支配者になった。長い年月を経て、混血し、単一民族化し、日本国家が生まれた。歴史、稲作、7000年前浙江省河姆渡(カボト)遺跡、絹も黒陶の土器の歴史も残っている。1万年前頃には揚子江流域で稲作が始まっていた様子。小麦農業も1万2000年前イスラエル地方で始まった。稲作農業、小麦農業、牧畜、如何に効率的に生産性を高めていくか、狩猟、探して取る、育て、作る。技術が探された、拡大される、都市文明が生まれた。道徳心が高い。日本だけではない。世界の国に比べて、犯罪が少ない、治安が良い。韓国も中国も台湾も、今、東アジアが世界で一番安全である。それは一人一人の道徳心が高いから、21世紀は東アジアの時代と言われる?本当に来るように思う。何故?労働観だけでも、欧州の西の文明とは大いに違う。ギルガメシュ叙事詩を見ると、神様は労働がお嫌い、だから、労働させる為に人間を創った。人間も又労働が嫌いで、奴隷をつくったとある。東アジアでは、神様も働く。日本、天照大神は田植えをし、機織りもした。私達は、働く事が好きな民族、働く事に神聖感を覚えるのか、それが東アジア人間の特徴である。日本の戦後の近代化はここにあった。21世紀の東アジアの時代もここにある。ややインフレ気味かもしれないが、長期の東アジア時代が期待できる。東アジアは日本以上の勤勉な民族だから。7世紀、聖徳太子、遣隋使という文化使節、日本の秀才を選りすぐって船に乗せて隋へ送り、その文化を持って帰ってきた。当時の船は、便も悪い、お粗末、半分ぐらいの人は死んでしまった。日本の優秀な人材を亡くした、それでも送り続けた。結果、日本は中国並の高い文化を持った律令国家になった。当時、日本は久しきにわたり、中国、インドから学んだ。中国、インドに追いつこうと努力をした。明治以降は、さらに西洋に学び、追いつき、今の近代国家日本が生まれた。
 森鴎外曰く、これからの日本人、2つの足で歩け、1つは西洋の足、西洋の文化、科学技術を学べ。1つは東洋の足、東洋の知恵を学べ。新しい日本人になれ。
 現実の社会は、人間は次第に神や宗教から離れようとしている。宗教を信じない、道徳も信じない、唯、欲望の塊になり、モノで栄えて心で滅びる。私の友、故薬師寺管主高田好胤は語っていた。
 嘘をついていけない、人を殺していけない、基本的倫理が、日本の高成長、近代化の成功の裏で忘れられようとしている。道徳、儒教精神を忘れてはならない。

擱筆

 産懇の益々の発展を祈って。思うがままに

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代表世話人メッセージ
『 「産懇宅配便100号」の思い出 』

木曜グループ代表世話人
河村 嘉男
丸菱工業株式会社 取締役会長)

河村 嘉男氏

 産業懇談会が昭和56年に誕生して今年で30年を迎えることになりました。
 産業懇談会が出来るきっかけは昭和54年1月に第2次石油ショックに見舞われ、経済が急降下で冷え込んだ時でした。それを機に同友会の会員の退会が目立つ様になり、会員の減少を食い止める手立てはないものかと、当時の事務局長であった岩田正氏より2〜3人の会員に声が掛かりました。
 その頃は他の団体も同様に会員の減少に各々の事務局が頭を悩ましておられました。同じ頃、期しくも名古屋市内のある銀行が取引先を中心に異業種交流会なるものを開催されましたので、同友会も良いことは見習おうと言うことで出来たのが産業懇談会であったと思います。
 確か当初は他の団体の会合と重なる曜日を避けて木曜グループが最初ではなかったかと思います。それから順次会員が増えるに従って火曜、水曜1、2と輪が広がり、今では4グループに発展し活発な活動がなされております。
 また、この「産懇宅配便」が出来たいきさつは8年前に水曜第2グループの片桐さんの発案で他のグループの活動状況を他のグループの皆さんにメール配信をして、広く知ってもらおうと言うことから始まりました。
 発行元は片桐さんがボランテイアで引き受けて頂き、発行当初の名前は「産業懇談会メールマガジンSUISUI」としてスタート致しました。
 現在の名前に改名致しましたのは、発行してちょうど1年が経ち読者も増えてきたからと相談を受け、宅急便にならって第13号から、現在の「産懇宅配便」に変わったと思います。只今では中部経済同友会の中軸をなす文化的事業活動だと自負致しております。また、徐々に中身も充実した内容になり他に類を見ない素晴らしいマガジンだと思っております。これも偏に片桐世話人さまのご努力のお蔭と感謝申し上げます。
 同友会の会員の皆様お一人でも多くの方に読んで頂いて、同友会を更に理解して会員勧奨のツールとしてご活用頂き、増強に努めて頂きたいと思っております。
 改めて、片桐世話人様はじめ同友会の事務局の皆さんに厚く御礼を申し上げる次第でございます。ありがとうございました。
 今後とも末長くよろしくお願い致します。


『 「産懇宅配便100号」に寄せて  』

火曜グループ代表世話人
各務芳樹
竹田印刷株式会社 取締役会長)

各務芳樹氏

 中部経済同友会に産業懇談会が生まれたのは、昭和56年度、大松代表幹事の年だったそうですが、平成元年に私が世話人になった頃には既に、火曜・水曜第1・水曜第2・木曜の4組編成になっており、当時は出席者も10名前後のときもありました。その後、火曜グループの会員でも他のグループに自由に出席できるようになり、最近では、どのグループでも20名以上の出席者があり、私の記憶では最高30数名の時もありました。本来、産業懇談会の狙いは異業種交流の場をつくり、それぞれの業界の情報を聞き、意見交換をする機会をつくることですから、各グループの参加人数は20名から30名が最適ではないかと思います。
 この会は年に1回、代表幹事のお話を聞く合同懇親会もあり、毎年夏には木曽駒高原で合同ゴルフ大会も開催しており、会員相互の親睦も深めております。
 特に火曜グループで印象に残っている数年前の例会は、今年度総務委員長をされているヤマカ株式会社の加藤智子さんの紹介で、多治見の奥の大萱の山に、桃山時代の作り方で作陶されている加藤孝造先生の窯場を見学に行った時のことです。参加者各自が土をこねて形を作り、先生が釉薬をかけて焼成して送っていただきました。その時の加藤先生が、偶然ですが今年「瀬戸黒」で人間国宝になられました。私は「ぐい飲み」を作っていただき、今でもその「ぐい飲み」でお酒を飲む度に、産業懇談会に入ってよかったと思っております。
 この度、片桐世話人様が産懇宅配便を発行されるようになってから丁度100号になるそうです。ご多忙の中、毎月インターネットに載せていただいている片桐様始め事務局の方に対し深く感謝申し上げますと共に、会員各位の皆さんのご協力によって、産業懇談会がますます活性化し、発展してゆくことを心からご期待申し上げます。

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世話人メッセージ
『 趣味は異業種交流!
産業懇談会世話人を楽しんでいます。 』

火曜グループ世話人
深田正雄
(株式会社料亭蔦茂 取締役社長)

深田正雄氏

 名古屋栄の料亭蔦茂の一人息子として育ち、仲居さんや芸者衆に囲まれて幼い頃を過し、また、近くのアメリカ村の文化を味わいながら小学校に通った団塊の世代。生活習慣は「女性を見ると声をかける!」「外人に会うと笑顔で手をだす。(Give me chocolate!)」という変わった子供でした。なんとなく、違った世界が大好きで好奇心イッパイ。窮屈な名古屋から東京へ、そして、狭い日本が嫌になりUSAのホテル会社に就職。変人人生のスタートのようです。
 同質化された日本に戻り、もっと異文化や違いを認め合う交流の大切さをホテルオークラの野田岩次郎会長との出遭いで再確認。ホテル業の志半ばで、家業の承継のために、27年前に名古屋に逆戻り、紳士服地卸のモリシマと料亭蔦茂をかけ持ち経営と相成りました。
 慣れない私を暖かく迎え心配してくれた中学高校時代の友人があつまり、企業の存続発展への支援をしてくれたのが勉強会のスタート。サラリーマンから急に中小企業の経営者となり、戸惑いも多い毎日に地元の諸先輩から幅広い応援もいただきました。本当に当地で育った名古屋のネットワークと人情味ある歓迎に、祖父母や両親の徳に感謝すると共に「なごやっ子」の素晴らしさを感じておりました。
 閉鎖的な名古屋を活性化しながら仕事に役立てようと団塊世代の二世経営者が集まり始めたのが、キッカケで名古屋経営研究会が発足、早27年となります。外から見るととても「仕事がしにくい、住みにくい」名古屋をもっと知ってもらって、オープンなサークルとして「みんな違って、皆、素敵な異文化交流」していこうという会です。今では異業種交流会のモデルケースとして老舗となってまいりしまた。
 10年ほど前に産業懇談会の各務代表世話人より、お手伝いして欲しいと声がけを頂き、当時は若手でしたが多少なりとも名古屋経営研究会での経験や人脈でお役に立てるかと、世話人をお引き受けした次第です。研究会の仲間から多くの若い事業家や女性メンバーが火曜グループに加わってまいりました。会員の特徴としては地元の経営者と女性が多く、転勤で名古屋にいらした方々と気さくな交流ができることが上げられます。
 現在の課題は、既存メンバーでのスリーピング会員への参加啓蒙、年2回ほどは外部講師招聘や事業所見学会などを企画して楽しい交流が図れるように尽力しなくてはと考えております。
 私の人生のテーマは「明るく、元気で、素直」、そして、人間として生き甲斐といえる3匹のタイを釣ること:「認められタイ」「誉められタイ」「人の役に立ちタイ」、産懇火曜グループで実践できる事が、趣味であり、楽しみです。


『 会員交流が基本 』

水曜第1グループ世話人
落合 肇
(宝和工業株式会社 取締役社長)

落合 肇氏

 昭和56年にこの産業懇談会が新設されたと記録されていますが、私は加藤景徳、氏家建、両氏が世話人をされていた頃にこの会に参加させて頂きました。
 そして平成5年、堀田逞二、大河内正雄両氏から世話人に指名されて、早や18年が経過致しました。
 その時、私として是非取り組んでみたい事業として、歴代世話人との感慨深い合同懇談会がありました。水曜懇談会の誕生秘話や苦労話と楽しいエピソード等も拝聴できました。その全員記念写真を撮り、50周年記念誌に提供させて頂きました。(97年7月例会)
 また、当会の特長として女性会員が多く、6名程であったと記憶しています。これに一考して毎月例会を女性スピーカーばかり連続でお願いし、加えて屋外例会の開催や一泊研修も企画してみました。これが好評で参加者も大勢になり、会員コミュニケーションの強化にも継がり、その後スピーカーのご協力ご支援に依り、会社訪問、視察研修会等へ発展させ、会員交流、異業種交流を通じ親睦の場としてもすばらしい効果があり、魅力を高める画期的な手段であったと、当時の活動を振り返り懐かしく感動をもって思い出されます。
 この産業懇談会は会員交流が基本だと思います。参加された皆様が、この不透明で混沌とした社会での意見交換、話し合いする中で何かヒントを得て持ち帰り、活かしてこそ意義があると確信します。
 今後一層の活性化に向けて引き続き世話人として精進して行きたい、と心新たにしています。

中部経済同友会産業懇談会水曜第1グループ
平成9年7月16日 於:名古屋東急ホテル


『 同友会産懇に思う 』

水曜第1グループ世話人
飯田 芳宏
イイダ産業株式会社 取締役会長)

飯田 芳宏氏

 友人の勧めで入会させていただき早10年が経った。小生も地元の会議所活動に始まり、県、市関係など様々な会に参加しているが、幸いいずれの会も自主参加であるので、楽しいというか有意義な会への出席率は良くなる代わりに足が遠のいている会もいくつかある。正直、同友会産懇は前者の方である。小生所属は水1であるが、自分の都合に合わせて外の3グループへ自由に参加出来るのも有り難い。
 話の内容もさることながら、事前準備のご苦労にも配慮しながらお互い真剣に相対するのも良いものだ。会社の紹介とか仕事の内容がテーマになる事が多いが感心することが時々ある。それは仕事とは離れた趣味の話を楽しく聞かされた事例である。(例えば苗字のルーツの話をされたMさん)自分も見習いたいと思うのだが、残念ながらこのメンバーを相手に1時間退屈させずに話が出来るほどの趣味、引き出しを持ち合わせない。うらやましい限りである。いずれにしろこの産懇でのこれまでの出会いは小生にとって良い人脈になっており、自分を含めこれまでのスピーカー殿に感謝したい。

 さて昨今のデフレ、弁当250円、安い事は良い事だと素直に食べるにはどうも抵抗がある。理由(わけ)ありの安さであれば立派だが素材、包装資材、流通コスト、、、どこかにしわ寄せが行ってる気がするし「どうしてここまで下げなきゃならないの?」と、もの作り屋としては何だか寂しくなる。しかしながら我々車の部品メーカーの業界でもこれに似たような現象が起きている。
 完成車メーカーからの定期的な値引き要求は相変わらずだが、最近はそれにに加え競争相手が中国ほか海外メーカーにも及び、商権維持の為に余分に下げざるを得ないというケースがある。しかし何時の時代にも競争はつきものであり、これに打ち勝ち且つ適正な利益を上げて生き残る為には何かの差別化が必要である事は言うまでもない。当社の差別化戦略は1にも2にも新製品開発(ハイテクとは限らない)であるが、サンプルが実績につながるのは容易ではない。
 先ずは自社のコア技術の範囲でニーズを見つける事であるが、小生の場合新聞、雑誌をいくら読むよりも異業種交流が一番だと信じている。レベルの高い方々との雑談、懇談の中からヒントを得る事である。産懇には今後とも積極的に参加して行きたいと思うし、更にファンが増え盛会になって行く事を期待している。


『 私の宝物 』

水曜第2グループ世話人
片桐清志
シーキューブ株式会社 代表取締役社長)

片桐清志氏

 ふとしたきっかけで始めた産業懇談会のメールマガジン「産懇宅配便」が、いつの間にか100号の節目を迎える。毎月の産業懇談会模様を会員が共有するしくみとして平成14年(2002年)6月に産声をあげて以来、毎月末時間に追われながらも、どうにか月内発行を続けることができた。これも今日までご登場いただいた大勢の方々のご協力と、同友会事務局のお骨折りのおかげだ。中部経済同友会に産業懇談会が誕生して30年の節目と重なるのも不思議な巡り合わせだ。
 誕生のきっかけは今から10年前、平成12年に行われた産業懇談会世話人会だ。当時から4グループに分かれて活動していたが、参加人数も平均14〜5名で、少ないときは10名程度のときもあり活性化策が議論の俎上に登った。そうした話し合いの中からグループ間の情報共有を図り、グループ間交流の促進を進めようとの目論見で、当時小泉内閣が始めたメールマガジン「らいおんはーと」をお手本にして誕生した。
 創刊号はとりあえず水曜第2グループの例会模様を紹介し、名称も「SUISUI(仮称)」でスタートした。創刊号は産業懇談会メールマガジンのいわばサンプルのつもりだった。ページ数もわずか4ページほどで、配信記録を見ると当時のメールアドレスの関係からか、わずか20名のスモールスタートだった。名前はその後、満一歳の誕生日に河村世話人が名付け親になってくれ現在に至っている。配信数もメール環境の普及もあり、230名を超えるまでに成長した。
 実は「産懇宅配便」の生い立ちを、平成17年(2005年)3月に火曜グループの例会でお話させてもらった。その模様も産懇宅配便34号(2005年3月号)に掲載されている。ご興味のある方は中部経済同友会のホームページ(https://www.cace.jp/)に「産懇宅配便」のバックナンバーが収録されているのでご覧いただきたい。
 その中で目標に掲げているのが「千人斬り」だ。その意味は「産懇宅配便」に登場する例会スピーカー、新会員紹介、会員寄稿、コラム等の累計千人を目指したいという大風呂敷だ。31号までの登場者数はわずか150名だったので当時のペースでは100号では届かない。最近では毎号約10名前後だが、連載コラムもあり新規登場は平均すると6〜7名程度だ。今回カウントしてみると99号までの登場者数は延べ542名で未達成だ。今手元にある99号までも「わが子」同然の宝物だが、「千人斬り」を達成したときの「産懇宅配便」が本当の意味での「私の宝物」だと思って、これからも老骨に鞭打つ所存だ。

 「らいおんはーと」はこの十年間、政権交代の都度改題し今は6代目の内閣メールマガジンが週刊で配信されている。それに比べ「産懇宅配便」は初代編集長のまま100号の節目を迎えた。この間、編集長のワガママにじっと耐え、お付き合いいただいた関係者と事務局に心から感謝する。


『 更なる交流を目指して 』

水曜第2グループ世話人
見祐次
(株式会社セブン・ワイズ 代表取締役)

高見祐次氏

 産業懇談会誕生から30年、産懇宅急便100号おめでとうございます。
 世話人の片桐様のご紹介で、中部経済同友会、水曜第2グループに入会、1年半が経過しました。そして、今年度より水曜第2グループの世話人も仰せつかり、今後も片桐様のサポートが出来るように産業懇談会を活発な会合に努力したいと考えております。
 さて、先般の産業懇談会世話人打合せ会に初めて出席して、産業懇談会の趣旨、歴史、経過等を知り、お恥ずかしい話ですが産業懇談会の意義を再認識いたしました。

 最近は、毎回30名近くのメンバーの方が参加されて、それぞれの業界、会社概要、事業の取り組み等やスピーカーの方の趣味、雑学のお話を聞き、井戸の蛙になること無く有意義な時間をすごさせて頂いております。
 また、他グループのメンバーの方々の参加も増えており、異業種交流の場として活発になっており、より効用のある懇談会になるように寄与していく考えでおります。
 只、課題はあります。多くの方々に参加して交流を深めていただきたいのですが、多くなると講演会、研修会のように受身の懇談会となってしまい、交流を図る時間が少なく無くなってしまうことです。(これは、世話人会でも話題となったことですが)その為に、少し時間の余裕のある方々が、1階のカフェでスピーカーの方との雑談の機会を設けるのもひとつの方法かもしれません。

 終わりに、ものづくりの製造業界と、私ども人が中心のサービス業界の根本的理念の違い、具体的には投資に対する費用対効果に対しての考えた方を本音ベースで聞くことが出来ましたこと、産業懇談会に参加して大変勉強になりましたことをご報告いたします。


『 「出会い」に感謝 』

木曜グループ世話人
倉藤金助
(倉藤会計事務所 所長)

倉藤金助氏

 産業懇談会誕生から30年が経過し、そして、産懇宅配便も100号を迎えるという。そのことを、産懇宅配便の生みの親である、片桐社長からお聞きし、その歴史に改めて敬意を表し、その歴史に立ち会うことのできることを喜んでいます。

 さて、中部経済同友会へ入会と同時に産業懇談会の木曜会に所属しました。最初の木曜会の会合へ緊張しながら出席したことが、ついこの間のようです。数年後、世話人の山本様から木曜会の世話人のお話がありました。錚々たるメンバーの世話人など勤まるわけはなく、そのよう申しあげたのですが、当時の事務局長の土屋邦夫様の「倉藤さん、あなたの出来ないことは、事務局の方でフォローするから受けなさい」いう励まし(?)の言葉を頂き、決心しました。今になってみれば、いい機会を頂いたと感謝しています。
 産業懇談会に出席すると、初めてお会いする方とは必ずと言っていいほど名刺の交換をします。入会するまでの私の世界は、中小企業の社長様とのお付き合いがすべてでした。ですから、当然のことながら、中部経済同友会で名刺交換する方々は、初めて接する経済界の人達で、今でもそうですが緊張しながらの挨拶です。そんなこともあって、中部経済同友会の方々との名刺は、入会から別にファイルしています。今、そのファイルを見ていますが、最初の名刺は東レ株式会社 名古屋支店 支店長 輿石邦豊 様です。そして平成22年8月に挨拶させて頂いた住友化学株式会社 名古屋支店長 佐古田 正明様まで255人(正確にはそれ以上のはずです)の出会いの名刺がファイルされています。出会いに感謝です。
 産業懇談会の楽しみの一つに"4グループ合同懇親会"があります。今年の企画は火曜グループです。4グループが交代で企画するわけですが、それぞれのグループの世話人代表の特色が出る楽しいものです。毎月開催されるグループごとの産業懇談会は、あまり出席者が多いと"懇談会"の意味が無くなると私は考えていますが、"4グループ合同懇親会"だけは、その企画の素晴らしさを全会員が味わってほしいと思います。
 古希を迎えました。長生きしたなぁ〜、とつくづく思います。長生きする人たちのたった一つの共通点。それは「友人の数」だそうです。隣人に恵まれた高齢者は、孤独な高齢者比べ、生き延びる確率が1.5倍も高い、という記事を読みました。産業懇談会での出会いが、「友人の数」に加算されることを願いつつ、これからも元気に活動したいと考えています。"産懇宅配便100号"おめでとうございます。

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歴代世話人メッセージ
『 「産懇宅配便 100号」バンザーイ 』

元木曜グループ世話人 
山本美知子

山本美知子氏

 それは突然の出来事でした。世話人を辞めて数年にもなるのと、資料などは処理した後でした。そこへ名誉ある100号を書けと命令を賜ったのですから・・・。

 思えば「怖い事知らず」の新参者は世話人を受けるようにとの電話に、考える事も無くホイホイと気軽にお受けしてしまったのです。
 毎月1回、ホテルでの会合が持たれていましたが、或る時、世話人の河村様が「今度交通の便利な所にするから・・・」と。それが現在の名古屋観光ホテルでした。確かに地下鉄伏見駅に近く、名古屋のど真ん中、交通の要所でした。この会議室は18階にあり、窓は大きく明るくて、展望も一番でした。出席者はそれ以来増加して部屋も大きいのに変わりました。(この案を伺った時、公共交通機関を利用する人は私一人くらい、だから出席者の増加に結びつけるなんて・・・と思ったのですが、不思議です)
 もう一つはグループごとに毎月開催していましたが、今後は例会を他グループからも参加が認められたのです。勿論、他のグループへ参加して大いに参考にさせて戴きました。ナンテ景気の良い事を言いましたが、よそのグループは満員の盛況なのに木曜日はカラッポ・悪夢・なんて事が起きなくて、やれやれでした。

 木曜会の活動状況を一つ紹介しましょう。ハンス ユーゲン マルクス様が当時の不穏な世界情勢を明快に回答され、「歴史は繰り返す」のこの諺は「世は東西を問わず」を感じました。

 これで、私の世話人は終わりました。長い間お世話になりました。
 皆さまの益々のご健康とご繁栄をお祈りいたします。
 有難うございました。


『 城山三郎と私 』

前水曜第1グループ世話人
岩部一好
(岩部建設株式会社 代表取締役社長)

岩部一好氏

 「平凡も信じれば力になる。」、「一日即一生」。城山三郎の遺言である。
 2007年3月に79歳で世を去った。はずかしながらエッセイ集を書きあげた。にっこりと笑みを浮べて、序文を書きとめて下さった。饒舌な人ではない。むしろ、言葉少なで静かな人である。あまりにも、きれいで透明で清々しさがある。しかし、気骨と覚悟を取り戻せと生涯にわたって追い続けた。まさに硬骨の人である。それと弟君、杉浦秀雄氏も、もうこの世にいない。とても悲しい。しかし、ご子息とは仕事が出来、先生の次女井上紀子さんとは作品での付き合いもある。楽しいことだ。喜ばしい。
 「命にかかわるなら、約束を破っていいというのか。自分は死んでもいい、議政壇上で死ぬとしても責任を全うする」。「男子の本懐」を読むとライオン宰相と呼ばれた浜口はもっと長期的に日本経済を良くするためには金解禁が不可欠だとして、そのために死を賭して極端な不況政策をとったことがわかる。東京駅で右翼に狙撃された。医者と家族の制止を振り切って登院する。安倍晋三前首相との対比は酷なことかもしれないが、城山先生が存在ならば何んと言われただろうか。組閣の焦点となる蔵相に、その仕事ぶりに信頼を寄せる「井上準之助」を指名する。緊迫する昭和初期の時代情勢の中で、決死の覚悟をもって金解禁を断行。有名なる言葉だ、頭から離れることはない。「中道で斃(たお)れようなことがあっても、もとより男子として本懐(ほんかい)である」。井上もまた三発の銃弾で帰らぬ人となった。
 大岡昇平(1909〜1988)氏の力添でご家族から、自分の目と耳で真実を集めたその膨大な取材に裏付けられ「落日燃ゆ」は最高傑作であり、まさに神がかりの作品である。この題名は奥方容子様の一言で決定する。A級戦犯として処刑された唯一の文官である「広田弘毅(ひろたこうき)」は、福岡の貧しい石屋に生まれた。広田は、日本が戦争の道を突き進む中、外相、総理と重責を担い、死を覚悟して戦争回避に尽力。東京裁判では一切の自己弁護を行わず、軍人とともに処刑される運命を受け入れる。派閥や権力者におもねることなく、最後まで「自ら計らぬ」生き方を貫いた「広田」の生涯を昭和史とともに克明にたどる城山文学の最高峰の作と信じる。家族との絆は裁判を一日たりとも休まず傍聴する。米軍関係者は最大の称賛を贈る。又、妻「静子」さんは判決前日に自殺する。死後も「広田弘毅」は「静子殿」として手紙を出し、その純愛には胸を打つ。西園寺元老と天皇そして軍備予算の件、吉田茂と外務省人事、必読の名作である。
 「鼠」、大正7年、急成長した神戸の鈴木商店は米の買い占めを噂され、大阪朝日新聞から攻撃を受ける。しかし、騒動の真実を紐解く形で組織と人間、当時の社会的側面を描く、金子直吉の実像、砂糖からハッカ、そして、総合商社へと進む。神戸から下関まで鈴木商店の煙突を立てる目的であった。しかし、銀行との問題があり日本一の商社は姿を消す。その人間性には心引かれる。ヘンスイとは俳号であるが「初夢や太閤秀吉、ナポレオン」まさに、自由で大らかな社風と人柄である。大儲けは、第一次世界大戦後のスチールの買い占め。すなわち、「バイ・エニイ・スチール・バイ・エニイ・プライス」この判断と銀行との付合い、大変に参考となる。
 「城山三郎はいう」、「僕は、幸福になろうとは思わないけれど、人が不幸になるのは、見てはいられない。」そして「日本人よ、気骨と覚悟を取り戻せ。」と教えている。
 好きな言葉は「担雪埋井(たんせつまいせい)」。立花大亀さんの言葉です。人の努力というものは、井戸の中へ雪を放り込んで埋めるようなものだ、というわけです。そんなものをいくら運んでも溶けてしまって、井戸は少しも埋りません。でも、それが人生だ。人生というのは、そういう姿をしたものだ。簡潔に表現している。
 言葉尻をはっきりしなければ、相手方に通じないじゃないか。それから、ものをいうとき、うつむいてはいかぬ、おれの顔を見、おれの目玉を見てものをいえ。そうすれば、自分のいわんと欲するところが十分いえる。だいたい人に向かってものをいうのにうつむいて、ものをいうことは卑怯千万である。
 ハワイアン・オープンで最終日18番ホール、のこり100ヤードを直接カップイン、テレビのインタビューでは、青木は「偶然とだけはいえぬ」といいきった。入る可能性を求めて、日々練習したから入ったのである、という。「打たれ強く生きる」の心とせよ。

 中部経済同友会の先輩から社会的な教えが読書の一歩となると教えられた。特に物故となられた杉浦秀雄氏に感謝の念と共に哀悼の真を捧げる。

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事務局長メッセージ
『 100号寄稿 』

事務局長 岡部年彦

岡部年彦氏

 産業懇談会30周年、「産懇宅配便100号」おめでとうございます。
 この機会に事務局長として何ができるのだろうかと考えました。10月14日に予定する合同懇親会を成功させること、記念品を企画すること、100号に寄稿すること、しかし、事務局としては当たり前の仕事であります。
 そこで、私に出来ることとして、産懇を支えていただいた歴代の産懇会員、世話人、歴代代表幹事を始めとする登壇者の皆様方、寄稿者、見学会で御世話になった方々、編集長や編集に携わった歴代事務局員の方々等、多くの方々への感謝の気持ちを胸に、542名の方々の講演録等を全て読破したいと考え、3日間没頭いたしました。
 業界・企業紹介は当然のことながら、政治の行方、マクロ・ミクロ経済、グローバルビジネス、IT・ナノテクを始めとする先端技術の数々、経営哲学、企業理念、人生哲学、事業継承、不祥事への対応、日本の心、環境・資源・食糧・エネルギー問題、教育問題、医療・健康問題、メンタルヘルス、戦争、治安、防災、犯罪、更生、観光、街づくり、雇用・人事問題、裁判員制度、ダイバーシティー、芸術、古典芸能、文学、歴史、地理、スポーツ、宇宙、南極観測、料理、酒等、ご講演内容は多岐に亘り、今回改めてトップマネジメントに携わる会員の方々の熱いメッセージに触れることができました。また、現地現物による工場等の視察、特に2005年の合同例会では、JR東海様のご配慮により、山梨実験センターを訪れ、「超電導リニア」に試乗させていただくなど、私自身も産懇を通してでしか経験の出来ないイベントにも 参加させていただきました。スピーチや視察当日に向けたご準備も相当なものであったと、心より感謝申し上げます。
 産懇の魅力は多々あると存じますが、今回原稿を再読し確信いたしましたのは、「予定調和の無い全方位の異業種交流で、参加すれば何か勉強できる、しかも肩肘張らずに交流できる」、それに「世話人様のリーダーシップ・お取りまとめの妙」であろうということです。
 今回、「産懇宅配便100号」の記念として、専用のファイルを作成いたしました。そちらには、過去99回の講演録等のインデックスを収録させていただいております。ご自身の講演録のみならず、ほぼ全ジャンルに亘る業界の経営者の皆様のメッセージに触れていただきやすい様にいたしておりますので、中部経済同友会(https://www.cace.jp/)のホームページから、『メールマガジン、「産懇宅配便」』ポータルをクリックしていただき、講演録を閲覧していただく際の道標にしていただけましたら幸いでございます。
 最後に、産業懇談会の益々の発展、メールマガジン200号に向けて、また片桐編集長の1,000人斬り達成に向けて、事務局として精一杯努力させていただく所存であります。
 今後とも、ご指導をよろしくお願い申し上げます。

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資料集
  1. PDF 歴代代表幹事一覧(PDF形式 89KB)
  2. 歴代世話人一覧(PDF形式 69KB)
  3. 歴代常務理事事務局長一覧(PDF形式 38KB)
  4. 産業懇談会講演者一覧(PDF形式 320KB)
  5. 産懇宅配便への寄稿・コラム一覧(PDF形式 98KB)
  6. 産業懇談会会員数推移(PDF形式 73KB)


【産懇宅配便100号特別増刊号編集後記】

  毎年、秋になると大学時代に所属をしていた部活の演奏会が開催され、懐かしい思いを胸に聴きに行きます。演奏会はもちろんですが、そこで久しぶりに会う友人、先輩、後輩との「おしゃべり」がとても有意義な時間となります。
  異業種交流の場として誕生された「中部経済同友会」のお仕事に携わるようになってから、この「おしゃべり」を「私の異業種交流」と勝手に命名しました。
  様々な土地や業種、職種で働いている仲間の近況や仕事の内容を聞くことで、新しいことを知り、私の小さな世界が少し広がります。
  そんな「おしゃべり」ではありますが、私にとっては、悩みを解決する道しるべになったり、仕事のアイデアにつながるヒントになったり、とても大切なものであり素敵なものだと感じています。今年は11月に「私の異業種交流」をしてきます。

 皆様の大切な異業種交流の場をメールマガジン編集という仕事を通して、何か少しでもお役に立てたらうれしく思います。 また、100号という節目を迎え、より充実したメールマガジンを配信できるよう努めてまいりたいと思います。

メールマガジン編集担当

  この度は、産業懇談会設立30周年、メールマガジン・産業宅配便創刊100号おめでとうございます。この記念すべき年に事務局として産業懇談会を担当させていただけたことを心より嬉しく感じております。
 今回、ご多忙のなか、ご寄稿をいただきました世話人経験者の皆様に、心より御礼を申し上げます。皆様の原稿を拝見し、各世話人様の産業懇談会への熱い想いが伝わってまいりました。そして、この熱い想いが産業懇談会を30年間支え、メールマガジン創刊100号への原動力となったことを実感し、 敬服をいたしております。今後も産業懇談会が更に活性化し、活発な異業種交流の場として末永く発展していかれますことを祈念いたしております。

中部経済同友会 事務局 片岡伸彰
山田有美